【第1部 藩主の肖像】<3>7代重晟 焼失の縮景園大改修
広島城(広島市中区)の東にある国名勝の縮景園は、市街の中心部にありながら風雅を極めた大名庭園として、今なお国内外の人々を引き付ける。約4万7千平方メートルの敷地の中央に池を配し、渓谷、橋、茶室などが巧妙に配置され、それらをつなぐ園路によって回遊できる。
現況に近い形に改修したのは、広島藩主浅野氏の7代重晟(しげあきら)=1743〜1814年=だ。広島の文化興隆に懸けたその熱意を伝える庭園でもある。
▽財政立て直す
重晟は1763年から99年に引退するまで36年間、藩主の座にあった。徹底した倹約を中心とする藩政改革(宝暦改革)を父の6代藩主宗恒(むねつね)から引き継ぎ、天災の頻発などで危機に陥った藩財政を立て直した名君とされる。
重晟の「けちっぷり」は筋金入りだ。77年、厳島神社(現廿日市市)の管絃祭を盛り上げる町人の御供船(おともぶね)を見た際、飾りの華麗さに腹を立て、翌年には船の仕様を定めて簡素化したと伝わる。あるときは孫の遊ぶ人形が豪華だとし、「私の幼い頃は土か張り子だったのに、時代は変わった」と嘆いた逸話もある。
そうした重晟が情熱を傾けたのが縮景園の整備だった。初代藩主長晟(ながあきら)が1620年、家老で茶人の上田宗箇(そうこ)に命じて作庭させた別邸の庭園に始まる。1758年、城下の火災で焼失。重晟は藩主に就任後、復旧に取り組み、83〜88年に約4年半を費やして大改修を施した。
宗箇の作庭には、不老不死を願う中国の神仙思想の影響が色濃い。池に浮かぶ大小の島を、長寿の象徴である鶴亀に見立てるのもこのためだ。園に隣接する広島県立美術館の隅川明宏学芸員は「戦乱を生き抜いた戦国武将にとって、心の平安を具現化したものではないか」と推測する。
改修は宗箇の作意を尊重しつつ、現在の園のシンボルともいえるアーチ型の跨虹橋(ここうきょう)など、新たな意匠を取り入れた。橋のモデルは、古今の文人に愛され、水戸藩の小石川後楽園(東京)などにも採用されていた中国西湖の景観とされる。重晟は中国文化に造詣が深く、自ら西湖についての文献を読み込んだと伝わる。
▽手入れ「質素」
節制を旨とする姿勢と、大規模な造園は矛盾しているようにも思える。だが、側近が記した伝記「竹館遺事」は、重晟が園の手入れをぜいたくにせず、質素を守ったと称賛。昭和期に著された「縮景園史」も、改修は「藩主の質素な生活ぶりを内外に示す意味」があったとする。当時の価値観では、縮景園は「質素」でありながら藩の文化水準の高さを示す施設だったようだ。
重晟が力を注いだのが、将軍の来訪もありうる江戸藩邸の庭でないのも注目に値するだろう。隅川さんは「国元の庭園にこれほど財と労力を投入するとは、重晟の広島への関心は歴代藩主随一だったといえるのでは」と話す。国元の家臣にとっても、さぞ誇らしかったことだろう。
重晟は、幕府お抱えの狩野派絵師に依頼するのが通例の厳島神社の絵馬を、藩士の岡岷山(みんざん)に描かせたこともある。また、縮景園の改修を担わせた庭師、清水七郎右衛門は尾道の出身だ。文化の中心である江戸や上方にも負けない、「広島ブランド」を創出しようとしたといえるのかもしれない。
全国の大名が優美さを競った江戸の庭園の多くは、明治維新後、藩邸とともに廃止された。国元につくられた縮景園は、浅野家の管理を経て1940年に広島県へ寄付された。原爆の被害を受けたが復旧し、地元で愛されながら、重晟の理想美を今に伝える。(城戸良彰)
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