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【第4部 地域と藩】<2>竹原 塩作り、町人文化醸成

2019/7/24 14:30
旧吉井家住宅にある広島藩主専用の御成門(手前)。隣は母屋

旧吉井家住宅にある広島藩主専用の御成門(手前)。隣は母屋

 江戸時代の風情が漂う竹原市本町の町並み保存地区(国重要伝統的建造物群保存地区)。その建物の中でもひときわ大きな町家「旧吉井家住宅」は、広島藩主浅野氏が宿泊する本陣として使われた。1691年に建てられた母屋の隣には、藩主専用の入り口「御成門(おなりもん)」がある。

 広島藩主浅野氏は4代綱長(1659〜1708年)以降、ほとんどがこの本陣を訪れ、一帯でタカ狩りをした。軍事訓練や民情視察も兼ねていたという。代々の藩主がこの地に頻繁に立ち寄ったもう一つの理由に、藩が開発した竹原塩田の視察がある。

 ▽安価で高品質

 この塩田は、藩が1650年、領内で最初に開発した「入り浜式塩田」だった。人力で海水を運び上げる従来の製塩法に対し、干満差を利用して海水を引き入れるという当時の画期的な方式で、赤穂藩(現兵庫県赤穂市)から導入した。「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主浅野氏は広島藩主浅野氏の分家に当たる。

 塩田の経営は、主に竹原の富裕町民が担った。製塩は尾道や三原でも盛んになったが、竹原の規模は1720年には面積約60ヘクタールと突出。当時、広島藩が塩田から徴収した運上銀の75%程度を占めた。竹原塩田で製造された「竹原塩」は安価で品質が良く、東北地方にまで流通する一大ブランドとして名をはせた。

 竹原の町人たちは塩をはじめ酒造業や問屋業などにも事業を広げ、大きな財を築く。和歌や神道などに関心を寄せ、江戸中期には上皇に歌を褒められたことで知られる歌人道工彦文(どうくひこぶみ)たちを輩出した。

 竹原市教委の林元(げん)学芸員は「竹原の町人は商売のために学問を必要とした」と説明する。「相場を把握するため、大坂や京都に遊学し、上方の人々と関係を構築する。その手段として茶道や華道といった教養が欠かせなかった」

 ▽頼春水を登用

 やがて学問そのものを突き詰め、藩の中枢に登用される人物が現れる。染め物業を営む町人の家に生まれた頼春水(1746〜1816年)だ。大坂で学び、広島藩の儒学教授となった。学問に深い関心を持つ7代藩主重晟(しげあきら)(1743〜1814年)の強い意向だった。

 重晟は1782年、広島城内に藩士を教育する「学問所」を再興する。25年に始まった学問所は財政難などを理由に43年、廃止になっていた。春水はここで実力をいかんなく発揮していく。学問所の組織編成や教育課程を立案し、講義内容を自身が信奉する朱子学に統一した。藩主の世継ぎに斉賢(なりかた)の名前を進上し、教育係として8代藩主へと導いた。

 頼家の活躍は目覚ましかった。春水の弟の杏坪(きょうへい)も儒学教授となり、斉賢の下で藩の地誌「芸藩通志」をまとめた。息子で儒学者の山陽(1780〜1832年)は学問所に学び、幕末のベストセラーとなる「日本外史」を生み出す。

 竹原の町並み保存地区は今も頼家の足跡をしのばせる。春水らが開講した郷塾「竹原書院」の跡地は現在、市歴史民俗資料館となり地域の往時を伝える。福山の儒学者菅茶山や尾道出身の女性画家平田玉蘊(ぎょくうん)ら、頼家ゆかりの文化人が集った照蓮寺は、市内外の観光客を引き寄せる。

 浅野氏の繁栄を支えた塩作りで花開いた竹原の町人文化。今も地区の至る所にその情趣が薫る。(森岡恭子)

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