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埋もれた犠牲者名、どう把握 「14万人」推計の域を出ず

2019/11/27 22:43

 約14万人―。原爆が投下された1945年8月6日からその年末までの犠牲者数として、広島市が示すデータである。当然のように引用されているが、推計値にすぎない。被爆75年の節目となる2020年が迫る現在も、犠牲者数すら未解明なのが現実だ。どんな名前を持ち、どんな人生を送った人たちが犠牲になったのだろう。資料を探り当て、「あの日」を知る生存者の記憶に耳を傾けながら「空白」を埋める作業は、時間との闘いでもある。公的な調査からこぼれ落ちている、確かに存在した命をどう記録するか。課題を探る。

 上空から見下ろした広島の街を、路面電車と車が行き交う。突然、目の前で投下された原爆がさく裂した。廃虚となった街に、解説の文字が浮かび上がる。「死者約14万人 1945年の終わりまで」

 広島市中区の原爆資料館で2017年4月から流れているコンピューターグラフィックス(CG)の展示映像だ。見学者に忘れ得ぬ印象を与えている。

 この展示を「推計値が独り歩きしていないか」と苦い表情で見つめる人がいる。広島の戦後史に詳しく、同館の展示内容に助言する有識者会議の委員を務めた宇吹暁・広島女学院大元教授(呉市)だ。

 「約14万人」は、76年に広島、長崎の両市が国連事務総長に提出した要請書の中で「14万人(誤差±1万人)」と報告したことに端を発する。広島市の被爆前の人口推計と、被爆後の政府の人口調査を比較するなどして算出された。要請書の作成を担ったのは、広島大助教授だった故湯崎稔氏たち広島と長崎の研究者。当時広島大助手だった宇吹さんも関わった。

 その宇吹さんが明かすのは、研究が途上であっても具体的な数字の提示に迫られた、当時の時代状況だ。

 先立つ67年、国連作成の「核兵器白書」は被爆直後に広島県警察部が報告した死者数に沿う「7万8千人」を採用。しかし被爆地では、市が53年に示した「二十数万人」が一般化していた。「海外から『広島の死亡者数に関する主張は大げさだ』という反応があった。国連でアピールする好機を得て、ある程度納得してもらえるデータを一刻も早く示そうとした」

 とはいえ「14万人±1万人」も推計の域を出ない。湯崎氏自身「より正確なデータが得られれば、この数は改めなければならない」(76年11月13日付中国新聞)と念を押しており、その後出版された「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店刊)では「45年11月はじめまでに13万人前後」との推計値を示した。

 一方で市は79年、「原爆被爆者被災調査」(現「原爆被爆者動態調査」)に乗り出した。こちらは、死没者の名前を集めては地道にたしていく手法だ。「45年末までの死亡者の確認数」は、2019年3月末時点で8万9025人。

 「8万9025人」と「14万人±1万人」の間に横たわる空白―。埋もれたままの名前はまだまだ多いとみられる。宇吹さんは原爆資料館の有識者会議で、動態調査の現時点の数字も展示するよう提案したが「単純明快な方がいい」「世界的に公認されている数字を」などの声が大勢だった。

 市は、最近1年間に死亡が確認された被爆者の名前を原爆死没者名簿に書き加え、毎年8月6日の平和記念式典で原爆慰霊碑に納めている。その名簿には「氏名不詳者多数」と記してある。米国が人類史上初めて市民の頭上で使用した原爆は、街と市民の命をもろとも破壊し、被害を把握する役割の行政機能を壊滅させた。一家全滅という例も少なくない。敗戦後に日本政府が被害調査の努力を怠ったことも、時間の壁をさらに高く、厚くしている。

 一人一人を突き止め、生きていた証しを刻む努力は困難極まる作業である。だが、諦めてはいけない。「70年以上たっても調べ続けている。それこそが重要だと伝えるべきではないか」。宇吹さんは問う。

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