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「マツダはあまりにもビジネスを急いでいた」 「変革か死か」を唱えたフィールズ元社長インタビュー詳報

2020/1/2 22:37
「運転を楽しむ車づくりに将来性はある。時代を勝ち抜く戦略が問われる」。フィールズ氏は力を込めた=米フロリダ州(撮影・井上龍太郎)

「運転を楽しむ車づくりに将来性はある。時代を勝ち抜く戦略が問われる」。フィールズ氏は力を込めた=米フロリダ州(撮影・井上龍太郎)

 ▽自問続けて「らしい車」を

 1999年末、38歳の若さでマツダ社長に就き、リストラを断行したマーク・フィールズ氏。米フロリダ州のオフィスを訪れての取材は3時間に及んだ。フィールズ氏は、マツダの経営再建に向けた努力の内幕を明かし、スポーティーさを強調するブランド戦略を生み出した背景を説いた。

 ■フィールズ氏は1998年8月に顧問としてマツダに着任した

 「あまりにもビジネスを急いでいる」というのが最初の印象だ。トヨタ自動車や日産自動車に対抗して車種も営業体系も広げ過ぎていた。商品が不必要に多く、財務で失敗していた。技術者は高い能力や情熱を持っていると感じた。

 マツダは規模が小さく本社も地方の広島。自動車業界の「敗者」になることが多かった。ただ、それだけに大きな会社に立ち向かう精神が宿っていた。この挑戦心で新事業を始めれば事態を打開できると思った。

 ■社長として2年半「チェンジ・オア・ダイ(変革か死か)」を唱え続けた

 役員に米フォード・モーター出身者は少なく、生え抜きが圧倒的に多かった。だから外国人が経営を一方的に指図するのではなく、もともとのマツダ経営陣が主導する形にしたかった。

 皆さんとは休日も4、5時間の会議を重ねた。会社を救うには何をするべきなのかと。担当分野だけでなく、会社全体の実態を把握してもらう試みもした。生き残るために「変革か死か」というキャッチフレーズを使った。

 ■2000年11月に発表した本社宇品第2工場(広島市南区)の閉鎖や1800人の早期退職者募集は地域に衝撃を与えた

 役員と意思疎通をした末に経営合理化計画をまとめた。実行しなければ経営破綻していただろう。小型エンジンの共用など理にかなう範囲でフォードとの相乗効果も追求した。従業員への投資として新しい福利厚生も考えた。労働組合との良好な関係づくりにも時間を費やした。

 ■ブランド構築にも力を注いだ

 自動車メーカーには極めて重要だ。ブランドの差がないと、コスト面でしか競えない。マツダの規模で低コストの車を実現するのは難しい。ブランドが確立すればフォードやトヨタより高い値段で車を買ってもらえる。当時のマツダは世界各地で訴える魅力がばらばら。結果、米国などで競争に負けていた。

 ■世界統一のブランドメッセージとした「ズーム・ズーム」は日本語の「ブー・ブー」に当たる幼児英語だった

 世界の広告会社に声を掛け、マツダ車の特徴を説明した。運転手と車が一つになれる「人馬一体」の考えに米国の広告会社が共鳴してメッセージが生まれた。世界中の人々が一瞬で理解できる言葉だ。

 この考え方に基づく最初の車、初代アテンザには強い思い入れがある。当時のパンフレットを今も大事に持っている。金井誠太さんが開発責任者だった。

 ■マツダ退任後はフォードCEOにもなった。豊富な経営経験を積んだ立場から、今のマツダを語る

 マツダ車のデザインは世界市場でも独特だ。日本メーカーで最も魅力的。どの車に乗っても運転が楽しい。

 一方で、変化する業界で生き残るすべを考えないといけない。セダンもスポーツタイプ多目的車(SUV)も全自動運転の車も全て追うのは規模的に不可能。勝負する舞台を定め、戦略を明確にする必要がある。自問を続けることが大切。次の100年もマツダらしい車が出続けることを期待したい。

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 マーク・フィールズ 米ハーバード大経営学修士課程修了。1989年フォード入社。フォードアルゼンチン社長を経て98年8月、マツダに顧問で着任した。専務、副社長を務め、99年12月に社長。2002年6月で退き、戻ったフォードでは副社長、最高執行責任者(COO)を経て、14年7月に最高経営責任者(CEO)に就任。17年5月に退任した。現在は米投資ファンドのシニアアドバイザーを務める。米ニューヨーク市出身。

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