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祖父は被爆オリンピアン 砲丸投げ・故高田静雄さんの孫、7月作品展(2018年05月20日掲載)
▽写真家・遺影含め「3度出場」
1936年のベルリン五輪に出た後、広島で被爆したオリンピアンがいた。砲丸投げの故高田静雄さん。戦後は原爆症と闘いながら写真家として2度目、遺影となって3度目の“五輪出場”を果たした。2020年東京五輪を前に、ネガなどの遺品を整理している孫の敏明さん(55)=広島市西区=は祖父を知ってもらおうと今年7月、東京で作品展を開く。
「ベルリン五輪で支給されたものです」。そう言って敏明さんは、静雄さんが82年前に着た紺色のブレザーを見せてくれた。胸に日の丸、襟には英語で「第11回五輪日本代表」と書かれたバッジ。ユニホームなども原爆による焼失を免れた。 静雄さんは日本選手権を6度制し「砲丸王」と呼ばれた。ベルリン五輪を経て引退。太平洋戦争末期の1945年8月6日、勤務先の中国配電(現中国電力)のビルで被爆した。爆心地から約700メートル。学徒動員に出ていた長女を失った。
▽元競技者の目線
数年後、静雄さんに原爆症の症状が出始める。体がだるく、自宅療養の日が増えた。この頃、力を入れたのが戦前から趣味にしていた写真だった。まず撮ったのは、荒れた原爆ドームや慰霊碑で泣き崩れる遺族。しかし次第に笑顔のスポーツ選手らに変わる。元競技者の目線から切り取る選手の表情は評判を呼んだ。 「写真は撮る人の心が写る。次へ向かおうとの思いや、スポーツが再びできる喜びを感じていたのでは」とプロの写真家でもある敏明さんは解説する。60年ローマ五輪の際、現地で開かれた関連のコンテストに入賞、2度目の“五輪出場”もかなえた。三男の雄三さん(70)=廿日市市=は「『(選手と写真の)2部門で五輪に出たのはわしだけじゃ』と喜んでいた」と振り返る。 静雄さんは64年東京五輪も新たに望遠レンズを買って楽しみにしていたが、原爆に体をむしばまれた。61年ごろには撮影に行けなくなり、肝臓が腫れ、おなかはぽっこり膨らんだ。63年12月、54歳で亡くなった。
▽友と「入場行進」
しかし、静雄さんは友の手で3度目の“五輪出場”を果たす。戦前からの陸上仲間で東京五輪の選手団長だった大島鎌吉さん(85年に76歳で死去)が遺影を懐に忍ばせ、開会式の入場行進に加わったのだ。大島さんは闘病中の静雄さんを何度も広島まで見舞っていた。 雄三さんは「父を東京五輪に連れて行ってやりたいとの思いだったのだろう」と推し量る。雄三さんも招待され、スタンドから見守った。雲一つない国立競技場の風景が忘れられないという。 敏明さんは「被爆はしたが写真という第二の人生を送れた祖父は幸せだっただろう」と語る。いずれは遺品も見てもらいたい。「戦争の時代を駆け抜けたオリンピアンがいたことを知ってもらえれば」と願っている。
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