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【私の師】映画監督・大林宣彦さん 常識人の目、意識し撮影(2011年6月6日掲載)
映画は時代を映す鏡であり、一歩先を示す道しるべ。東日本大震災と福島第1原発事故が起き、映画は何をすべきかが問われる。映画界の若い人の間で急に、故黒沢明監督へ注目が集まっている。
黒沢さんは核問題で3本の映画を撮っている。米国の核実験で被曝(ひばく)した第五福竜丸事件を受け、海外移住する工場主を描いた「生きものの記録」(1955年)。その後が、原発事故で日本が滅びるという「夢」(90年)と、米国人が原爆投下を謝る「八月の狂詩曲(ラプソディー)」(91年)。当時の世間には認められなかったが「実は黒沢監督は語っていたじゃないか」とようやく認めだした。
黒沢さんから学んだのは映画監督はジャーナリストであること。ただし、その目は常識人。黒沢さんは「戦争反対だし、核も反対。しかし国家に反対すれば革命家になるし、国家の側に立てば政治家になる。両方の真ん中にいて、できるだけ賢く幸せな方向に行くようにリードするのが映画」と言っていた。
「尾道3部作」を撮った当時、尾道でも高度成長で「街壊し」が始まっていた。そこで「こんな古い街にはこんなファンタジーが生まれますよ」というストーリーにした。映画を見て尾道を訪れた人が「古くていいですね」と言うから、尾道の人も「不便なところがいいんだよ」とPRし始めた。古さをとどめたかったが、プラカードを担がず、穏やかで優しい映画を撮った。
私がちょうど50歳の時。黒沢さんが「夢」を製作するので、(撮影の様子を記録する)メーキング映像の撮影をやってほしいという依頼がきた。映画会社の撮影所での経験がなく先輩の現場を知らなかったので、「やってみよう」と思った。
あるシーン。半年くらい撮影所でリハーサルをし、御殿場(静岡県)のロケ現場に来た。だが雨は降るわ、風は吹くわで1週間くらい撮影できず、とうとう雪も降った。撮影が終わった時、黒沢さんはへなへなとうずくまり「大林君、撮れたよ。撮れたんだよ」とぽろぽろ泣いた。半年がかりの「OK」だった。
その後、尾道で「ふたり」を撮った。暑い暑い夏。俳優は冬の寝間着姿で演技する過酷な状況だったが、なかなか「OK」が出せなかった。徹夜になり、みんな汗みどろで、くたびれた。後悔もしたが、完成したフィルムを見てびっくりした。クオリティー(質)が上がっていた。これが先輩の現場から学ぶことかなと思った。
晩年の黒沢さんから「(私の)続きをやってくれないか」と、遺言のように言われたことがある。だから今、大学で若い人に教えている。今度の映画にも若い人をスタッフに付けて、学ばせようとしている。黒沢さんが今も指針になっている。(聞き手は荒木紀貴)
おおばやし・のぶひこ 1938年、尾道市生まれ。77年に「HOUSE ハウス」で劇場映画に進出。尾道3部作と親しまれる「転校生」(82年)「時をかける少女」(83年)「さびしんぼう」(85年)では、昔ながらの街並みが残る尾道の魅力を発信した。2003年から倉敷芸術科学大の客員教授、06年から尚美学園大大学院の教授を務める。「日本三大花火大会」と称される新潟県長岡市の花火大会を題材にした新作を今夏から製作する。73歳。
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