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【戦後75年 二つの被爆地 中国・西日本2紙共同企画】「宣言」それぞれの歩み

2020/6/28 21:12

昨年8月6日の平和記念式典で「平和宣言」を読み上げる松井市長

 8月6日の広島原爆の日は「平和記念式典」で、9日の長崎原爆の日には「平和祈念式典」で、市長によって平和宣言が読み上げられる。歴史や文案の起草における市民の関わり方に違いはあるが、世界に届ける被爆地の声、という重要性は共通している。被爆75年の節目となる今年、新型コロナウイルスが感染拡大した中での発信力が問われそうだ。平和宣言を巡る二つの被爆地の歩みと現状を見る。

 ▽広島 市長の思い、世界へ発信 被爆者の体験引用

 「われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしよう」―。広島の最初の平和宣言は、原爆投下から2年後の1947年。「第1回平和祭」で浜井信三市長が読み上げた。犠牲者の慰霊と、戦争否定の訴えだった。

 平和宣言がなかった年もある。朝鮮戦争が始まった50年、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で平和祭自体が中止に。翌年に式典は開かれたが「市長あいさつ」にとどまった。正式に占領が終わった52年からは毎年読み上げられている。

 現職の松井一実市長は、5〜7月に計3回開く「平和宣言に関する懇談会」で被爆者や大学教授、平和団体の代表者から意見を聞きながら、事務方と原案を起草している。会合は非公開だ。新型コロナウイルスの影響で、今年の1回目は書面で意見聴取した。

 市平和推進課によると「新型コロナの感染拡大でみられる自国第一主義への警鐘」などの案が7人の委員から寄せられた。2回目も書面でのやりとりだったが、7月中旬の3回目は会合を開催予定だ。

 2011年に就任すると松井市長は、被爆体験を公募し、有識者の選定委員会を設置。2人の手記を採用して引用した。市長2期目は公募をやめ、選定委を懇談会に衣替えしたが、なおも歴代市長と比べて「市民参加型」と言える。昨年は被爆者の短歌、一昨年は2人の体験談を盛り込んだ。

 一方で平和宣言は、その時の国際情勢や核状況を踏まえ、市民の代表である市長が自らの名前で世界に発するメッセージと位置付けられてきた経緯もある。

 2期8年務めた平岡敬さん(92)は就任直後の1991年、アジア・太平洋地域での日本の「植民地支配や戦争」に言及。「申し訳なく思う」と述べた。平岡さんは「市民の意見を幅広く聞きながら、最終的に市長が起草に責任を負うのが平和宣言だ」と覚悟を語る。

 秋葉忠利市政の99年から3期12年は「2020年までの核兵器廃絶実現」などの訴えが押し出された。文面には毎年、時代背景はもちろん、市長の個性が反映される。最近は、核兵器禁止条約を巡り議論が巻き起こった。

 17、18年の平和宣言に、日本政府を名指しして核兵器禁止条約への署名・批准を強く迫る文言はなかった。二つの県被団協を含む県内の6被爆者団体は昨年7月、市に要望書を提出。これに押される形で昨年、松井市長は「被爆者の思い」として署名・批准を日本政府に働き掛けた。県被団協(坪井直理事長)の箕牧(みまき)智之理事長代行(78)は「被爆者たちの背中を押すように、市長自らの意思と言葉で日本政府に強く求めてほしい」と語る。

 ▽長崎 市民の声、ストレートに 起草委の議論公開

 長崎市長が代表して読み上げる平和宣言を、市は「市民の声」と位置付けている。被爆者をはじめ、さまざまな立場や肩書の人たちによる起草委員会が考え抜いたメッセージや言葉が盛り込まれる。「誰が聞いても同じ解釈になること」(市平和推進課)を心掛けているといい、ストレートな表現が目立つ。

 「生々しい表現、肉声がないと説得力がない」「核兵器使用のリスクが高まっていることを強調すべきだ」。6月上旬の初会合で、田上富久市長が示した素案に指摘が飛んだ。委員は被爆者や被爆2世、核問題研究者、大学院生など15人。報道機関に限っていた傍聴は、5年前からすべての市民に公開されている。

 「長崎の考え」を明確に打ち出す宣言は、1979〜95年に市長を務めた本島等氏(故人)にさかのぼる。就任初年に、米国の原爆投下責任に言及。「無差別に、大量の人間を殺傷した原子爆弾投下の責任はなぜ不問に付されてきたのか」と投げ掛けた。

 最初の平和宣言は、終戦3年後の連合国統治下で、長崎への原爆投下が「世界戦争に終止符を打った」との表現も見受けられた。その後は核実験や多くの市民を巻き込むベトナム戦争などへの批判が盛り込まれ、時代とともに変化したが、それにしても本島氏の明確な米国非難は異色だった。

 市職員中心だった起草委を被爆者医療に携わる医師や研究者に入れ替えた。81年に非核三原則の揺らぎがうかがわれた際には当時の鈴木善幸首相を名指しして「真実を国民に知らせてください」と訴えた。88年に市議会で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言すると、その翌年の平和宣言には、太平洋戦争が真珠湾攻撃に始まり長崎原爆に終わったとして「心から反省し…」と戦争加害の視点を入れた。本島市長は90年に銃撃されるが、なおも平和宣言に「反省」を盛り込み続けた。

 当時を知る元市職員の田崎昇さん(76)は、この頃から国際会議などで「ナガサキ」が知られ、通用していくのを感じたという。

 「自由」な気風は受け継がれた。伊藤一長氏(故人)は2005年、核廃絶に消極的な米国の姿勢を「国際的な取り決めを無視し、核抑止力に固執する姿勢を変えようとしない」と批判。現職の田上氏も「核の傘」から脱しようとしない日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と強く責める。

 01年から起草委に参加する日赤長崎原爆病院の朝長万左男名誉院長(77)はこう感じているという。「最初に各委員の意向を聞き取って、市長と一緒に文章を練り上げる。市民の意見や考えが宣言の文面、言葉遣いにダイレクトに反映される傾向は確かにある」

 【平岡元広島市長に聞く】コロナ禍の式典、どう紡ぐ 国への姿勢に物足りなさも

 元広島市長の平岡敬さんに、平和宣言の意義や役割について聞いた。

 平和宣言には、原爆犠牲者の慰霊の思いと、平和思想に基づく核兵器廃絶の訴えが盛り込まれている。

 市長自身の歴史認識や世界観も反映される。就任後初の平和宣言で私は、日本の戦争中の加害行為に言及した。1994年の広島アジア大会を前にヒロシマの平和への思いを伝えるには、日本の歴史責任を認めることが大切だと考えたからだ。反発もあった。

 98年には核兵器使用禁止条約の締結を訴えた。被爆地だからこそ政府に物申すことができるし、その責任がある。核兵器禁止条約に対する日本の姿勢を批判し、明確に批准、署名を求めるべきだ。その点でここ数年の平和宣言に物足りなさを感じる。

 広島と長崎は比較されがちだが、二つの被爆地の平和宣言それぞれに意味がある。原爆が投下されるまでの歴史も、戦後の歩みも違う。特に広島は「軍都」だったことを忘れてはいけない。8月6日と9日の発信は「被爆地全体の声だ」と世界に受け止められる。それだけ、影響は大きい。

 新型コロナウイルス感染が世界的に広がる今、「人類的危機」を痛感している。核兵器の存在も人類的な危機だ。コロナ禍で迎える今年の原爆の日に、どのような言葉を紡ぎ、二つの被爆地から世界に発信するのか注目している。

 被爆者が高齢化し、記憶の継承が急務だ。将来は、平和に対する思いや核兵器廃絶への訴えを後世に語り継ぐメッセージとしての役割が増すだろう。若い人たちには、歴代の平和宣言を読み、被爆地が何を発信してきたか知ってほしい。(中国新聞・新山京子、西日本新聞長崎総局・徳増瑛子)


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  • 今年の起草委員会の初会合であいさつする長崎市の田上市長。「自由に意見を出してください」と呼び掛けた
  • 平和宣言について「被爆地だからこそ政府に物申すことができるし、その責任がある」と語る平岡さん

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