地域ニュース

【駅伝】世羅ヒストリー<上>栄光への号砲 選手・指導者・地域が結束

2020/12/17 0:29
第1回大会で優勝を飾った世羅のメンバー(世羅高校駅伝史より)

第1回大会で優勝を飾った世羅のメンバー(世羅高校駅伝史より)

 強風の中で号砲が響いた。1950年12月27日午後1時、大阪市の毎日新聞大阪本社前。第1回全国高校駅伝の1区を、世羅(広島)の国藤貢造は足袋で走りだした。「当時の大阪市街は石畳で走りにくかった。他校の選手の半数ぐらいははだし。あの時は本当に優勝できるとは思っていなかったな」。88歳になった国藤は、70年前の光景を鮮明に記憶している。

特集・全国高校駅伝50回出場 世羅ヒストリー(全記録)

 3区でトップを奪うと、5区谷敷正雄、6区のアンカー岡河孝治も快走して2位を2分22秒も引き離してゴール。翌51年も谷敷、岡河を軸に2連覇を飾り、「駅伝の世羅」の名は全国にとどろいた。

 当時の男子生徒数は約300人で、陸上部員は12人程度。山里の小さな学校が、なぜ強かったのか。

 礎を築いたのは初代監督の内海冨貴郎だ。47年に赴任し、質量とも充実した練習で鍛え上げた。「合理的な練習をいち早く取り入れた。足腰が強く、性格も辛抱強い農家の子どもが多かったのも大きい」と陸上部OB・OG会の神田敬州事務局長は話す。地域の住民も私財を投じて遠征費や食費などを支援。選手、指導者、地域の結束が今も変わらぬ「駅伝力」の源だ。

 56年以降は西条農など県内ライバル校の台頭で全国舞台から遠ざかったが、12年ぶりに出場した67年大会で3位に入賞。71年は直前に集団食中毒に見舞われながらも5位に入り、健在ぶりをアピールした。

 翌72年に21年ぶりの日本一を奪還。新畑茂充監督は「地域の、学校の心からの励ましが優勝まで押し上げてくれた」と声を震わせた。74年にも圧勝で4度目の優勝を飾った。

 しかし、70年代半ばからはあと一歩で頂点を逃し続けた。日本を代表する指導者となる坂口泰(中国電力総監督)や岩本真弥(ダイソー監督)、原晋(青学大監督)らを擁しても。特に岩本の世代は「世羅史上最強」と呼ばれながら、3年間で3位が最高だった。「速いだけでは駄目。強い選手でないと勝てない」。敗北で得た教訓が後に、母校復活の背骨となる。

    ◇

 20日に京都市である全国高校駅伝に、世羅の男子が節目の50回出場を果たす。全国トップの優勝9回、8位入賞36回と卓越した成績を収めてきた「駅伝の世羅」。その曲折の歩みを振り返る。(加納優)

特集・全国高校駅伝50回出場 世羅ヒストリー(全記録)


この記事の写真

上記の写真をクリックすると拡大して表示されます。

  • 前の記事へ
  • 次の記事へ

 あなたにおすすめの記事

地域スポーツの最新記事
一覧