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二重被爆伝える「原爆の絵」 広島の資料館、所蔵5000枚で唯一
広島と長崎の二重被爆者が描いた「原爆の絵」があった。作者は相川国義さん(2017年に84歳で死去)といい、65枚を02年に広島市の原爆資料館へ寄せていた。1945年8月6日の体験から姉と同9日に着いた郷里の惨状を赤裸々な記述を添えて克明に表す。資料館が所蔵する約1400人・5千枚の「絵」で二重被爆を伝える唯一の作品と分かった。
400字原稿用紙39枚とスケッチブック26枚からなり、うち原稿用紙4枚には長崎の体験を描いていた。
相川さんと姉の福井絹代さん(90)=青森市=は44年、三菱重工業広島造船所の開所で働くことになった父との3人で長崎市から転居。やがて父が召集され、広島市千田町で2人暮らしをしていた。
8月6日は、「お膳の前に座った時/黄白色の閃光(せんこう)が走った」。爆心地から約1・8キロ。姉を倒壊家屋から助け出し、御幸橋へと逃げた。「ヒーヒーと云(い)うばかり」の女子生徒や「赤黒く焼け死んでる赤ン坊」がいた。猛火を比治山でしのぎ、平野町にあった文理科大プールそばで野宿。翌日、捜しに来た父の友人に伴われて沖合の似島へ避難した。
姉弟は帰郷を決め8日に廃虚のデルタへ。広島鉄道局の記録によると広島駅は本線開通で、下り線は午後3時30分第33列車(博多行き)が初列車となった。スケッチブック26枚目は、6日の光景と列車を描き「長崎で広島と同じ地獄を見ようとは、夢にも思ってみなかった」と記している。
9日の4枚は、長崎方面から来た列車の描写に始まる。「うわっ…と叫んでしまった」。負傷者であふれていた。自身らの列車は長崎駅の2駅北、道ノ尾の手前で停車した。姉と線路沿いに歩き爆心地一帯に入る。「川の中は、皮膚のハガれた死体が折(り)重なっている」。祖母が住む長崎市内に着いたのは原爆の3時間後だったと文で添えている。
65枚の「絵」は、広島市などの02年募集に応じて描かれていた。資料館の「図録原爆の絵」(07年刊)は、うち1枚を巻末の作品一覧で載せたが、本編掲載161枚にある作者の被爆状況の説明はなかった。資料館は発信する「平和データベース」で今後、「二重被爆」と検索すれば相川さんの作品が出るようにする。
相川さんは戦後、父や姉と東京に移住。91年に「広島、長崎原爆体験記」(原稿用紙62枚)を書いて都内の被爆者でつくる東友会に寄せてもいた。晩年は長崎で暮らし亡くなった。(西本雅実)
<クリック>二重被爆者 広島と直線距離で約300キロ離れた長崎の両方で被爆した人たち。三菱重工業長崎造船所の技師だった山口彊(つとむ)さん(2010年に93歳で死去)を09年、長崎市が公式に認定し、被爆者健康手帳に広島での被爆を追加記載。厚生労働省は実数を調べていないが、広島と長崎の各国立原爆死没者追悼平和祈念館への名前・遺影登録で、被爆地が「両市」とあるのは現在21人を数える。
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