地域ニュース
1945年8月6日を撮った被爆カメラマン 松重美人さん(2005年1月29日掲載)
中国新聞本社の金庫には、被爆当日の市民の姿が写った5枚のオリジナルネガが収められている。元写真部員の松重さんから「永久保存してほしい」と1998年に託された。世界史に残る写真の撮影をめぐる話を聞くたび、「生き運があったから撮れた」と控えめな言葉が返ってきた。
「8月6日」朝は、前夜からの空襲警報が解除され中国軍管区司令部から帰宅した。報道班員を命じられていた。腹ごしらえをして出勤する途中で便所へ行きたくなり、再び戻り閃光(せんこう)を浴びた。爆心地から2・7キロ、現在の南区西翠町。中区胡町に当時あった本社に向かっていたらまず助からなかったに違いない。
飛び散ったガラス片で出血したが自宅は倒壊を免れ、愛用のカメラ・マミヤシックスを携え中心部へ向かった。火炎に阻まれるうち、爆心地2・2キロの御幸橋西詰めで、無惨な姿で逃げてきた学徒らをためらいつつ後ろから撮った。近づいてもう一カット。ところが「前に回りこむと、あまりにむごくて…。職務とはいえ撮れなかった」。冷徹な観察者にはなれなかった。「涙でファインダーが曇った」とも表したゆえんだ。
その2枚は46年7月6日付の「夕刊ひろしま」(中国新聞社発行)で掲載され、やがて原爆の惨禍を伝える写真として世界で知られる。69年の退職後は国内はもとより核を持つ米国や旧ソ連、中国で証言した。昨年11月フランスの通信社の取材には人工透析の身を押して応じた。
「あの現場にいた者の務めというか、平和を願って話すんです」と語っていた。5枚の写真を社でデジタル保存したことを伝えると毛筆の礼状が届いた。出棺を見送った写真部後輩の岡村政男さん(85)は「やおい人でした」としのんだ。穏やかで律儀な、ヒロシマのカメラマンがいった。
2005年1月16日、92歳で死去。
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