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被爆体験話しよる時に倒れても本望 被爆者の伝言・松重美人さん<下>(2001年8月12日掲載)

2021/3/26 8:22
IPPNW総会に出席するためモスクワを訪れ、取材を受ける松重美人さん=右端(1987年6月)

IPPNW総会に出席するためモスクワを訪れ、取材を受ける松重美人さん=右端(1987年6月)

 原爆の惨禍は、どんなにオーバーに言ってもオーバーにならんと思う。原爆投下の日に歩いて見た広島市中心部は、地獄の一語に尽きるようだった。千田町だったと思うんじゃが、学校のプールがあった。前の日は水がいっぱいあったのに、蒸発していて、底には、死体がいくつかころがっとった。

 ▽無残な死体、撮影せず

 一番悲惨だったんは、紙屋町で止まっとった広島駅行きの電車だった。14、15人ぐらいの乗客が、車内前方に圧縮されたようにかたまって死んどった。爆風のすごさを物語っとった。

 ステップに足をかけて中をのぞくと、目を開けたまま亡くなっている人たちが、こっちを見とるように思えた。撮ろうとしてファインダーをのぞいたが、一緒におった同僚が「やめとけや」と声をかけたんです。どうしようか迷っとった時だったんで、結局撮るのはやめにした。もし1人で歩いとったら、案外撮っとったかもしれん。

 米国や中国など核保有国でも、原爆投下の日の写真とともに核兵器廃絶を訴えた。1987年には、ソ連(当時)のモスクワであった核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の総会で被爆体験を話した

 3千人の聴衆に「あの日」、市内を歩いた体験を話した。結びには子どものことをちょっと話した。

 ▽親の姿捜す疎開児童

 確か45年の10月だった。戦争が終わって広島県北に疎開していた子どもたちが、やっと広島に戻ってきた。家族が駅に迎えに来とったが、親兄弟が全滅して迎えが来ん子どもも多かった。

 その子らはぼう然と、家族と再会して大喜びしとる子を見とった。あまりにかわいそうで、よう写さんかった。10人ぐらいはおったじゃろうか。ほとんどの子が無言。すすり泣きの声も聞かれた。

 原爆はもちろんいけんけど、戦争自体がいけん。これからは平和な世の中をつくるよう、全人類が平和であるよう、みなさん努力してください。そう訴えたんです。

 短い時間だったけど、思いが伝わったんじゃないかな。拍手が止まらんかった。うれしかった。

 21世紀を迎えた今夏も、原爆写真展を開催。東京の中学生には、被爆体験を語った

 若い世代が、原爆のことや戦争のことをまったく知らんのが怖い。戦争になれば、最終的に核が使われる恐れがある。そう考えると、どんなに小さくても戦争と名の付くものがあったらいけん。戦争体験の風化を許していると、取り返しがつかなくなる。何とか若い人に知ってもらいたい。そう思うて、写真展はもう20年以上も続けとる。

 大げさに言えば、被爆体験の話をしよる時、倒れても良い。そんな覚悟はある。元気な時は、こんなことは思わんかったけど、88歳の今は倒れても本望じゃ思う。(おわり)

【被爆者の伝言・松重美人さん】
<上>ファインダーが涙で曇っとった
<中>写真の役割、核廃絶まで終わらない
<下>被爆体験話しよる時に倒れても本望

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