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原爆の真実を残す 広島で90歳対談 映画監督・新藤兼人さん・元本社カメラマン・松重美人さん(2003年4月11日掲載)

2021/3/26 8:40
被爆直後の写真を掲げる松重さん(中)と、その仕事をたたえる新藤監督(左)。右は柏原さん(原爆資料館東館)

被爆直後の写真を掲げる松重さん(中)と、その仕事をたたえる新藤監督(左)。右は柏原さん(原爆資料館東館)

 広島市出身の映画監督新藤兼人さん(90)が、文化勲章受章後初めて帰郷し、被爆直後の風景を撮った元中国新聞カメラマン松重美人さん(90)=安佐南区=と10日、中区の原爆資料館東館で対談した。ともに90歳で映像を職業とし、原爆、平和への強い思いを抱き続ける2人。広島の人たちに託した言葉を拾った。(増田泉子、柳原舞)

 松重「あの朝、翠町(南区)の家で食事して、自転車で御幸橋まで行った。汚い話ですがトイレに行きたくなって引き返した。そのまま新聞社へ行っていたら、私は消えてなくなっていた」

 新藤「『原爆の子』を撮る時、私は兵隊にとられて原爆を知らないから、写真や被爆者の話から勉強した。その中で印象に強かったのが、松重さんの写真だった」

 松重さんは、原爆取材を振り返る本を、ボランティア活動に幅広く携わる柏原知子さん(53)=東区=と共著で6月に出版する。推薦の言葉を書いてほしいとの依頼を、新藤監督が快諾。監督が、広島市の名誉市民章贈呈や、地元の知己による文化勲章祝賀会に出席するために帰郷し、対談が実現した。

 再会は「原爆の子」のロケ以来51年ぶり。柏原さんが口火を切り、上がりっ放しの松重さんを、新藤さんが人生の達人らしいユーモアで包み込むように話は進んだ。

 松重「御幸橋の被爆者の様子はあまりにもむごくて…。2枚目を撮る時は涙でファインダーがかすんだ。今でも橋を通ると嫌な思いがする」

 新藤「松重さんは原爆投下直後、妻と裏の畑へ逃げたという。そんな普通の人が、『助けなきゃ』という心の揺れを克服してシャッターを押した事実が重要。プロの仕事が、真実感のある、永久に残る力を持たせた」

 2人は、9日にバグダッド陥落が報じられたイラク戦争にも言及した。

 松重「戦争というのがどんなものか。イラクを見ても分かるように、勝っても負けても犠牲者が出ます。再びヒロシマの惨状が起きないよう、若い人にも教えてあげていただきたい」

 新藤「私は大した思想は持っていない。戦争は人殺し。人1人殺しても死刑になることがあるのに、戦争はたくさん殺したら勲章がもらえる。原爆の風化を言うけれど、どんどん出版したり映画を作ったりしなきゃいけない。イラクのように世界が混乱する時代に、ヒロシマから何を発言するかは重大です」

 「原爆の映画をたくさん撮ってきたが、今度は原爆が落ちた1秒と2秒の間を、2時間で表現したい。どんなふうに威力を発揮したか、どう人を殺したか。忠実に再現したい。あと10年いうわけにはいきませんから、1、2年の間にやれるようなことがあればやりたい」

    ◇

 新藤兼人氏(しんどう・かねと)佐伯区出身。「原爆の子」(1952年)など反戦反核を訴える映画をはじめ、老いなど人間の「生」をテーマに描き続けている。47作目となる「ふくろう」を撮り終えたばかり。

 松重美人氏(まつしげ・よしと)呉市出身。爆心地から約2・3キロの御幸橋西詰めで、臨時救護所の被爆者の姿などを撮影。原爆投下から間もない貴重な記録写真として原爆資料館にも展示されている。

 ▽私たちがくみ取らねば 会場埋めた160人 それぞれの誓い

 会場は約160人が訪れ、満員になった。松重さんの絞り出すような言葉に泣いたり、新藤さんのジョークに笑ったり。

 妻と並んで聴いた安佐北区の飲食店経営原田健次さん(31)は「松重さんの幸せそうな顔が印象的。悲惨な体験から、今の表情になるまでの歴史を私たちがくみ取って伝えていかなければいけない」。

 資料館のピースボランティア、佐伯区の小泉喜代子さん(60)は「2人が戦争のことを淡々と語られたのが、余計に強く印象に残った。新藤さんの新しい原爆の映画はぜひ見たい。頑張って撮ってもらいたい」と話した。

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