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炎の中の6歳「おかあちゃん」と叫んだ 「朝鮮特需」の陰、岩国米軍機墜落の悲劇

2021/9/23 23:31
米軍機の墜落事故現場を訪れ、当時の状況を証言する寄元さん

米軍機の墜落事故現場を訪れ、当時の状況を証言する寄元さん

 朝鮮戦争の勃発から3カ月たった1950年9月27日、岩国市横山の錦帯橋近くの民家に岩国基地を飛び立った米軍機が墜落し、住民3人が死亡、5人が負傷した。市内で唯一、民間人が犠牲になった米軍機事故から間もなく71年。墜落現場が母親の実家で祖母といとこの男の子を亡くした寄元幸子さん(89)=同市横山=が「事故を忘れてほしくない」と悲惨な状況を証言した。

 当時18歳だった寄元さんは現場の2軒隣に家族と住んでいた。「朝からの雨がやみ、窓に近づいた時でした。外がシャッと真っ赤になり『バリバリバリー』『ドカン』と大きな音。雷が落ちたと思って外に出ると、大きな火の玉が丸く広がった」。午後0時40分ごろ、軽爆撃機B26が墜落した瞬間だった。

 翌28日の中国新聞は、民家3戸が全半焼し、祖母の作本クニさん=当時(68)=と、いとこの光忠ちゃん=同(6)=たち住民3人と、乗組員4人のうち1人が死亡したと伝えている。

 「光忠ちゃんは背中が焼け、エビのように丸まって亡くなった。炎の中でしばらく『おかあちゃん』と叫んでいたが、途中から聞こえなくなったと聞いた」と生々しく証言する。祖母の頭の骨は粉々になり、数日後、真っ黒な油や灰の残る現場で拾い集めたという。

 この2週間ほど前、キジア台風による大雨で錦帯橋が流失したばかり。当時の新聞各紙は占領下のプレスコードの影響か、墜落事故の扱いは小さく、錦帯橋の再建の動きを大きく報じている。

 「朝鮮戦争が始まっても岩国の人に緊迫感はなかった。特需に沸き、有頂天になっている感じ。墜落事故は大きな問題にならなかった」と振り返る。被害者への進駐軍からの謝罪や補償はなく、山口県がわずかな見舞金を出しただけだった。

 事故から70年余りたち、極東最大級の航空基地となった米軍岩国基地からは毎日のように戦闘機の音が響く。悪性リンパ腫の闘病を続ける寄元さんは「周りの人は戦闘機の音が当たり前になっているけど、私は怖くて音がするたびに空を見上げる癖が抜けない。雷の音も怖い」と訴える。

 岩国市内でさえ、いま墜落事故を知る人は少ない。「私は一生背負ってきた事故。夜、思い出して涙が出ることがある。少しでも若い人に伝えられたら」。久しぶりに墜落現場を訪れ、振り絞るように話した。(永山啓一)


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