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壮観さ随一、規模も破格【福山城考】第1部六つの魅力<1>西国の重要拠点

2022/1/15 21:06
明治初期の福山城。天守(右上)や大小の櫓が石垣の上に並び立つ(福山城博物館所蔵)

明治初期の福山城。天守(右上)や大小の櫓が石垣の上に並び立つ(福山城博物館所蔵)

 福山城とはどんな存在だろう。46万人の中核市に発展した福山の歴史はこの城造りとともに始まり、長い年月を刻んできた。ゆかりの史跡などは市内外に広がり、産業や文化にも伝統が息づく。築城400年という節目にその歴史や特性をひもとき、城を生かしたまちづくりの道筋を探りたい。まずは福山城の六つの魅力に焦点を当てる。

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 堀の向こうに大小の櫓(やぐら)が3段構えの石垣の上に並び、奥には5層の天守がそびえ立つ。江戸前期の1622年に築かれた福山城を、広島大の三浦正幸名誉教授(城郭建築)は「城下から見た時の見栄えが見事だった」と語る。

 城郭には、福山藩と同じ10万石規模の大名の天守クラスの三重櫓が六つもあった。櫓と櫓をつなぐ多門櫓は本丸と二之丸に連なり、総延長570メートルは西日本随一の規模という。敵陣の侵入を防ぐ役割があり、見栄えに加え、防御力を高めたことがうかがえる。

 さらに二之丸の外側に内堀、三之丸の外側に外堀も備え、総面積は約25万7400平方メートルに及んだ。マツダスタジアム(広島市南区)の5個分に相当する。福山市立大の八幡浩二教授(考古学)は著書「福山藩」に「10万石規模の大名としては破格の城郭規模だった」と記す。

▽外様大名に権威を示す

 城を築いた初代藩主の水野勝成は、徳川家康のいとこで、「鬼日向」の異名を持つ猛将として知られる。安芸、備後両国を支配した福島正則の改易を受け、備後国南部などを領域とする福山藩10万石の領主として大和郡山(奈良県)から転封した。

 新たな城造りは、1615年の「一国一城令」で厳しく制限されていた。にもかかわらず、築城が許されたのはなぜか。その意図を表す幕府側の文書は見つかっていないが、専門家の間では西日本の情勢が影響したとの見方で一致する。

 毛利、浅野、池田…。江戸幕府が大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして以降も西国には外様大名が割拠していた。三浦名誉教授は「西日本は豊臣系の外様大名のいわば巣窟。城主の威光を示し、倒幕の動きを封じる必要があった」とみる。動乱後の近世城郭では防御よりも権威を示すことが重要視された。

 福山城博物館(福山市丸之内)の皿海弘樹学芸員(36)は、幕府が資金を援助し、城の建築にたけた奉行まで派遣していた点に注目する。「それだけ西日本を抑えるための重要な拠点と考えていたのだろう」と受け止める。

 幕府の重臣が造った荘厳で堅固な城はしかし、明治維新以降、廃城令や都市開発によって多くの建物が壊され、堀も埋められた。1891年には内堀などがあった場所に鉄道が通され、福山駅もできた。国の重要文化財である伏見櫓など一部を除き、昔ながらの姿をとどめる建造物はほとんど残っていない。

 かつての城郭の広がりを示す外堀の遺構も地表に残るのはごく一部だ。駅周辺を歩いても規模を実感できる状況にはない。往時の姿を駅などを訪れた人たちにもどう伝えるか―。城の価値や魅力を広めていく上で鍵になる。

 こうした中、市や市民有志は、仮想現実(VR)映像や立体模型、散策マップなどさまざまな手法でPRに力を入れる。8月にリニューアルオープンする天守内の福山城博物館でも、新たな映像が公開される。(門戸隆彦)

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