マツダ100年 車づくりと地域

<1>創業者・重次郎 原点・大阪、もう一つの起業

マツダ100年 第1部 あの時 あの場面2019/11/18 22:51
信管を製造する松田製作所の工場(1916年)

信管を製造する松田製作所の工場(1916年)

 マツダの前身、東洋コルク工業は1920年1月に産声を上げた。当初は今の広島市中区中島町にあり、瓶のコルク栓を造っていた。事実上の創業者は松田重次郎氏(1875〜1952年)。現在のマツダの工場に近い南区向洋地区に生まれた。

 ▽品質磨く企業風土、脈々

 会社の創立に深く関わった重次郎氏は21年3月に社長に就くと、すぐに新工場を設け、コルク板の生産に乗り出した。冷蔵設備の断熱材などとして売ったが、関東大震災後の不況や工場の火災もあり、経営は「苦難に満ちていた」と伝わる。

 そんな中で重次郎氏は「独自の製品を持たねばならない」と説き続けた。国内で珍しかった三輪トラックの製造を現在地で始めた30年代が、今のマツダの源流になった。

 ▽露の信管受注

 実はもう一つ、重次郎氏は東京証券取引所第1部の上場企業を創業している。工作機械メーカーのOKK(兵庫県伊丹市)だ。マツダより一足早く2015年に1世紀を迎えた。「両社が共に長く発展したのは偶然ではない」とOKKの宮島義嗣社長(59)は言い切る。独自の品質を磨き続ける風土が共通すると指摘する。

 宮島社長は100年の社史を自ら編んだ。「松田製作所」として大阪で始まった草創期は、東洋コルク工業ができる前の重次郎氏の姿を映し出す。

 重次郎氏は13歳から大阪の鍛冶屋で修業した。自ら考えたポンプを造り始めた場が、松田製作所だ。第1次世界大戦が始まると、ロシアから砲弾を作動させる信管を400万個も受注した。

 宮島社長が取り出した古いアルバムには、奥が見通せないほど広い工場で多くの人が働く写真が残る。大阪市中心部に工場の建屋を増やした勢いは、豊臣秀吉の「一夜城」になぞらえられて評判になった。信管を安く大量に造るため大阪内外の生産機械を買い占めた影響は、機械の相場が上がるほどだった。宮島社長は社史を作るため図書館で文献をひもとくうちに、重次郎氏の経営者としてのスケールの大きさを痛感した。

 ただ、社史で重次郎氏のくだりは長くない。社業の発展を目指し、新工場を計画。労働力の確保や広さを考えて広島の向洋地区に土地を求めた。しかし、他の役員と対立した。1917年に「辞任し広島に帰った」と記されて、出番を終えた。

 ▽創業2社が接点

 重次郎氏ゆかりの2社は別々の道を歩んだが、60年代に交わる。四輪車の生産に乗り出したマツダに、OKKが溶接用の機械など数百台を納めたのだ。経緯は分からない。宮島社長は「互いに引き寄せられるものがあったのだろう」と想像する。

 松田製作所の工場があった場所は今、阪急電鉄の大阪梅田駅の北側に当たる。高層のホテルやオフィスビルが立ち並ぶ。そこから西に約700メートル。マツダの唯一の直営ショールームがある。

 展示車は2台だけ。別に開発過程の粘土モデルや道具類が並ぶ。技術や開発の社員が車づくりを語る催しも開く。案内した従業員は「車を売らないマツダのショールームは世界でここだけ」と胸を張った。商品価値を高める戦略を採るマツダにとって、大阪は今も特別な地であり続ける。

 重次郎氏は晩年「私を思い切り鍛錬してくれた土地」と大阪を振り返った。ここで磨いた技能や経営感覚が、広島でマツダの礎となった。宮島社長は重次郎氏の足跡を訪ねて広島入りした際、南区の墓を参った。創立100年を報告し、念じた。「あなたの魂を引き継いで頑張っていきます。見守っていてください」。マツダにも通じる言葉だった。(村上和生)

    ◇

 マツダが来年1月30日、創立100周年を迎える。連載第1部ではその歩みを象徴する場面を振り返る。

 <クリック>松田重次郎氏 マツダの実質的な創業者。1875(明治8)年8月生まれ。少年期から機械の技術者に憧れ、大阪と神戸の鍛冶屋、呉海軍工廠(こうしょう)や長崎の三菱造船所で腕を磨いた。起業と挫折を繰り返し、1915年に大阪で松田製作所を創立。退任後の20年1月、マツダ前身の東洋コルク工業の創立に役員として参画した。21年3月から約30年にわたり、社長を務めた。初期のコルク製造から機械に転じ、31年から三輪トラックを製造。51(昭和26)年12月に会長。翌52年3月、76歳で亡くなった。

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この記事の写真

  • 松田製作所の写真を手に、会社の原点に思いをはせる宮島社長(伊丹市のOKK本社)
  • 大阪時代の松田重次郎氏

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