マツダ100年 車づくりと地域

【マツダ100年 車づくりと地域】第2部 創業家<3>波乱の2代目 世襲批判、退社し別会社

第2部 創業家2019/12/18 22:51
松田精密工作所が製造したボールペン。藤田昭さんは会社の原点に思いをはせる(撮影・天畠智則)

松田精密工作所が製造したボールペン。藤田昭さんは会社の原点に思いをはせる(撮影・天畠智則)

 東洋工業が創立50年を迎えた1970年1月30日、当時の松田恒次社長は記念式典で「100年を目指して頑張ろう」と社員に語り掛けた。そして「あくまで自主独立を貫く」と強調した。国内の他メーカーが米国のクライスラーと資本提携したりゼネラル・モータース(GM)と交渉を始めたりする中、力強く再編を否定した。74歳で亡くなる10カ月前だ。

 ▽精巧な技 今に至る強み

 創業家2代目の恒次氏は30歳を過ぎて入社。父の重次郎社長の下、購買部を振り出しに働き始めた。三輪トラックの開発では東京、大阪を巡って部品を求めた。売れ行きが伸びると、いち早く「次は四輪車の時代が来る。製造を始めましょう」と父に進言。早くから積極的な経営姿勢を見せ、後に自動車メーカーとしての基礎を築いた。

 その道のりは浮き沈みの繰り返しだった。最大の転機は専務時代の47年。戦後、民主的な考え方が強まる中、父が70歳を超え、社内から「世襲は封建的だ」と批判が上がった。三輪トラックで復興を支えた自負があった恒次氏。「息子だから継ぐのではない」との思いを抱えたまま、51歳で東洋工業を去った。
(ここまで 475文字/記事全文 1784文字)

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  • 創立50年の記念式典であいさつする恒次氏
  • 松田精密工作所時代の恒次氏(後列左から3人目)と京郎氏(同6人目)。松田耕平氏(前列右端)も仕事を手伝っていた(1948年)
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