マツダ100年 車づくりと地域

【マツダ100年 車づくりと地域】第3部 激動の経営<1>起死回生 大胆な赤、転機つかむ

第3部 激動の経営2020/1/27 23:37
生産100万台目となった5代目ファミリア。本社宇品工場での記念式典で、アーチを突き破って登場した(1982年7月29日)

生産100万台目となった5代目ファミリア。本社宇品工場での記念式典で、アーチを突き破って登場した(1982年7月29日)

 赤―。30日に創立100年を迎えるマツダの車を象徴する色だ。現行車は濃い陰影でデザインを際立たせるソウルレッド。2012年に初めて採用し、翌年には広島東洋カープがヘルメットの色にした。松田元オーナー(68)は「金井誠太さん(マツダ前会長)に薦められた。ものすごくいい赤」と打ち明ける。チームの躍進とともに、プロ野球ファンにも浸透した。

 ▽ファミリアが一世風靡

 「マツダの赤」は40年前にも全国を駆け巡った。5代目ファミリア。サンライズレッドと呼ばれた鮮やかな車体が「赤いファミリア」として一世を風靡(ふうび)し、第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。開発に携わった元専務の滝口忠彦さん(81)は「若い女性に受けるよう、赤を大胆に使った」と振り返る。

 発売は1980年。創立60年の節目だった。マツダ初の乗用車R360クーペの発売から20年が過ぎていた。自動車市場は成熟。自家用車は通勤に加え、レジャーなど生活を彩る役割も欠かせなくなっていた。

 新たなニーズに応じて工夫を凝らした。電動で開閉し、オープンカー気分を味わえるサンルーフを搭載。前席を倒すと後席と一体になり、車内で寝転べるようにした。目新しい仕掛けは若者のアウトドア志向に響いた。ファッションで屋根にサーフボードを載せる「陸(おか)サーファー」も出現。社会現象になった。

 82年7月には生産100万台に達した。量産開始からの期間は前輪駆動車で当時の世界最速だった。本社宇品工場(広島市南区)での記念式典には白と赤で塗り分けた車両が登場し、従業員たちが喜びを分かち合った。

 ただ、滝口さんは開発時の心境を「会社がつぶれないかと不安だった」と明かす。名車誕生の裏には、大きく変わる経営体制と全社一丸の奮闘があった。

 ▽チームプレーで人気車誕生 合議制へ、攻めの販売も

 マツダ本社の作業場で赤いファミリアが輝きを放っていた。創立100年に向けた事業の一環で若手社員たちが昨年、修復した一台だ。今月22日、元専務の滝口忠彦さん(81)がその雄姿を懐かしそうに見つめた。

 「今の赤い車と色感が似ているね」。意外な共通点を口にした。車体の色は日の出を意味するサンライズレッド。「業績が再び上向くようにとの願いもあったのかも」。開発に懸けた熱意がよみがえってきた。

 ファミリアの発売が近づく1980年1月の記者会見。「今年は攻めに転じる」。当時の東洋工業社長、山崎芳樹氏(2014年に99歳で死去)は意欲を語った。だが、そのわずか2年余り前は、報道陣の前で戸惑う表情を隠せなかった。

 石油危機で経営が傾き、松田耕平社長は77年12月に退陣した。後任の山崎氏は会見で「非常につらい。松田家3代にわたって勤め、こういうことになるとは」と嘆いた。創立から半世紀余りで創業家のトップが退場。経営再建の見通しを問う厳しい質問を浴びた。

 山崎氏は後に「くそーっと思った」と当時の思いを打ち明ける。「うちの社員は立派だ」と歯を食いしばった。反転へと突き進む信条は「基本に忠実」。大きく墨書し工場に張り出した。正確な作業で生産性を高めるよう求めた。

 ▽サッカー精神

 「基本を重んじる根底にはサッカー精神があった」と、かつての東洋工業サッカー部選手で日本代表の主将も務めた元取締役の小沢通宏さん(87)は言い切る。山崎氏は学生時代に選手として活躍し入社間もなくサッカー部を創設。部長として全国制覇を成し遂げた。その人柄を「面倒見が良く実直。仕事には厳しく、直属の部下には恐れられていた」と小沢さんは語る。

 社長就任後はその手腕を生かし、組織を見直した。車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設した。経営トップの意向を強く反映する従来の車づくりを刷新。部署を越えて多くの人が意見を出し合う体制を築いた。現在も続く合議制の始まりだ。最初の商品が5代目ファミリアだった。

 経営を救う車をいち早く―。開発陣の思いは一致していた。スケジュールを厳しく守りつつ、理想の車を絵にする「仮カタログ」づくりから始めた。「チーターのようにしなやかで俊敏な走り」というイメージが議論の中で生まれる。左右の車輪が独立して路面の形に合わせて走る構造も決定。今につながる「人馬一体」の言葉も飛び交い始めた。あらゆる工夫を詰め込んだ。

 販売面も大胆に攻めた。発売した80年6月、東京の三越銀座店の外壁を縦20メートルの懸垂幕が覆った。車名と共に「スポーツごころ満載」と文字が躍る。百貨店の顔となる外壁を他社の宣伝に使うのは極めて異例だった。広島店を含む全国の三越で車両の展示もした。

 三越に協力を打診した元マーケティング部部長の佐藤芳克さん(77)は「担当者は最初『前例がない』と戸惑っていた」と振り返る。「若者向けの車。店の集客にもつながります」と頼み込んだ。背中を押したのは「作り手の魂がこもった車。こけたら後がない」という危機感だった。

 ▽月販台数首位

 スーパーのイトーヨーカドーにも車両を置いたところ、店側が近くにキャンプ用品を並べ、消費者にアウトドア向けの印象が広まった。営業マンが家を巡って車を売り込んでいた時代。斬新な宣伝が功を奏した。

 82年4月、ファミリアはトヨタ自動車のカローラを抜いて月販台数でトップになった。翌年にかけて首位に立つこと8回。山崎氏は「全社員の頑張りで花が開いた」と語った。一丸となったチームプレーが引き寄せた結果だった。(村上和生)

 <クリック>山崎芳樹氏 1914(大正3)年、広島市南区生まれ。38年に東洋工業入社。常務、専務を経て、77〜84年に社長。79年には米フォード・モーターから25%の出資を受け入れた。85〜88年に広島商工会議所会頭。旧広島証券取引所の理事長や広島県サッカー協会会長も務めた。東洋工業のサッカー部長時代には、日本リーグと天皇杯全日本選手権を制覇。J1サンフレッチェ広島の母体となるチームの基礎を築いた。

 <クリック>石油危機後の経営再建 1973年の石油危機のあおりで東洋工業は2年続けて赤字に陥った。74年にメインバンクの住友銀行(現三井住友銀行)から役員を受け入れ、当時の松田耕平社長は77年に退陣した。75〜82年には延べ約1万3千人の社員が全国の販売会社に営業担当として出向した。消費者から直接聞き取ったニーズが5代目ファミリアの開発に生かされたという。

    ◇

 経営危機で創業家が一線を去った1970年代から一転、80年代は大ヒット車を連発した。しかし90年代はバブル崩壊による販売不振から米フォード・モーター主導の経営も経験した。浮き沈みを繰り返したこの半世紀を、当時の幹部や関係者の証言から解き明かす。

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  • マツダ本社で5代目ファミリアを懐かしむ滝口さん。自らも購入し「家族でドライブしたのがいい思い出」

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