マツダ100年 車づくりと地域

【マツダ100年 車づくりと地域】第3部 激動の経営<2>防府進出 10年要し念願の組立工場

第3部 激動の経営2020/1/28 23:02
防府工場の完成式で、新型カペラにシャンパンをかける山崎氏(手前右)。左端は防府市の原田孝三市長(1982年10月)

防府工場の完成式で、新型カペラにシャンパンをかける山崎氏(手前右)。左端は防府市の原田孝三市長(1982年10月)

 新しい製造ラインを赤い新型カペラが流れていく。1982年10月、防府市西浦で東洋工業の組立工場が完成式を迎えた。最初の1台に山崎芳樹社長が笑顔でシャンパンをかける。「広く世界に雄飛する工場」。自信みなぎる社長の言葉を万感の思いで聞いた人がいる。元山口県商工労働部長の湯田克治さん(82)だ。「県庁人生で最も忘れられない瞬間」と振り返る。

 ▽石油危機が影

 全国有数の塩田跡地に自動車工場を造る計画に地元は沸いた。しかし完成式まで10年も要した。「みんな焦っていた」と湯田さん。今も当時の県庁の雰囲気をはっきりと思い出せる。

 山口県の製造業は長く化学や鉄鋼が中心だった。ものづくりの裾野を広げるには、最終製品となる機械の組立工場が欠かせないと考えた。「マツダの工場が何としても欲しかった」。防府進出を決めたものの、なかなか動かない東洋工業に早期の建設を求め続けた。

 新工場の場所を決めたのは当時の松田耕平社長だ。本社宇品工場(広島市南区)は増産続きで生産能力が限界に近づいていた。島根や大分、福岡、愛媛県からも誘いがあったが、本社と比較的近く、陸海の輸送が便利で工業用水が豊かな防府を選んだ。

 だが石油危機で業績が急落し、建設は延期を繰り返した。地元には「進出が立ち消えになるのでは」と疑念が広がった。市議会では土地を買い戻すよう求める追及の声まで上がった。

 山崎氏が社長に就き、経営再建が進み始めた80年夏、防府市中関地区に変速機の工場を着工。ただ、地元が求める組立工場の先行きはなおも不透明だった。
(ここまで 650文字/記事全文 2017文字)

会員限定の記事です
  • 無料登録して続きを読む
  • ログインする

この記事の写真

  • 「街でマツダ車が走っていると目で追ってしまう。すっかりファンになった」と語る湯田さん
  • 無料登録して写真を拡大
  • ログインする
  • 前の記事へ
  • 次の記事へ

第3部 激動の経営の最新記事
一覧

 あなたにおすすめの記事