マツダ100年 車づくりと地域

【マツダ100年 車づくりと地域】第3部 激動の経営<5>財務再建 フォード出身社長、大なた

第3部 激動の経営2020/2/4 22:09
広島県内の山あいの完成車置き場。千台を超す在庫で埋まった(1993年12月)

広島県内の山あいの完成車置き場。千台を超す在庫で埋まった(1993年12月)

 マツダ行きを告げられたのは、日本から地球の真裏にあるフォード・ベネズエラの経営トップの時だった。米フォード・モーター出身の初代マツダ社長となるヘンリー・ウォレス氏(74)。1994年2月、経営再建への覚悟を決めて着任した。

 マツダが「困難な状況」にあることは知っていた。それでも財務諸表を見て驚いた。「西洋の企業なら倒産してもおかしくない」。昨年11月、中国新聞の取材にウォレス氏は当時の思いを語った。94年3月期は19年ぶりの経常赤字。完成車置き場には千台を超える在庫が並び、有利子負債は7千億円を超えていた。「住友銀行(現三井住友銀行)の支援で持っているようなもの」と分析せざるを得なかった。

 ▽風景変える決断

 手をこまねいてはいられない。フォードでは開発部門の財務のプロで鳴らした。想定を上回る厳しい状況を立て直すため、矢継ぎ早に手を打った。

 中でも地元に衝撃を与えたのがタクシー仕様車の生産中止だ。当時、JR広島駅(広島市南区)周辺を走る中・小型タクシーのほぼ半数が、ルーチェやカペラをベースにしたマツダ車だった。国の保安基準が変わったのを機に95年、「マツダ城下町」の風景を変える決断をした。

 「広島のタクシーがマツダ車でなくてどうするんだと日本人は考えていた」。ウォレス氏は当時の社内のムードを語る。年3千台しか売れない車の全面改良は負担が大きく「金にならないのは誰の目にも明らか」だった。それでも、地域との結び付きを大切にする生え抜きの役員には難しい選択とみた。「外国人の私たちだから判断できた」と説明する。
(ここまで 662文字/記事全文 1741文字)

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