リポーター発

インドネシア

【インドネシア】日本への信頼 強まる絆

2019/4/2
大型観光バスを含めて、全て日本車。バイクも。左端はトヨタのショールーム兼修理サービス工場

大型観光バスを含めて、全て日本車。バイクも。左端はトヨタのショールーム兼修理サービス工場

 マナドのショッピングモールやホテル、総合病院などを結んで南北に貫く「海岸通り」。片道3車線の幹線道路は、24時間車が途切れることがない。意外なことに気づいたのは、昨年ここに来て間もない時期だった。
 車がすべて日本車なのだ。100%! 厳密に言うと、この半年で韓国車とドイツ車を1台ずつ見たが、日本国内の比どころではない占有率。インドネシアでは日本車の割合が高いと聞いてはいたが、これほどとは。ショッピングモールの前には、トヨタのショールームを兼ねた修理サービス工場がある。市内随一の繁華街に工場が。その存在感というものが分かる。
 なぜ、ここまで? 地元の人に聞いてみた。「耐久性もデザインもいい」「韓国車のディーラーがマナドにあるけど、修理工場はないから」等々。誇らしいような、面はゆいような。
 実は車だけではない。マナドがあるスラウェシ島北部と日本の関係は深いのだ。古くは江戸時代の鎖国前にもさかのぼるというが、活発になるのは大正初期から昭和前半にかけて。沖縄から移住した漁師らによるカツオ漁や貿易、そして太平洋戦争。マナドから東へ50キロのビトゥン市のかつお節工場には最盛期で日本人200人、インドネシア人400人が働き、マナドには150人の日本人がいたと記録されている。
 そして戦争。1941年12月の真珠湾攻撃から1カ月。日本は資源と拠点を確保するために南進し、オランダ領東インドと呼ばれたインドネシアで戦火の口火を切る。それがマナドだった。海軍の落下傘部隊がオランダの飛行場を制圧し、その後の拠点とした。そして敗戦。空爆で会社や工場は壊滅し、現地の人を含めて多くの命が失われた。それらの墓は戦後の長い間に荒れ果て散逸していた。
 1人の日本人を紹介したい。
 ビトゥン在住の長崎節夫さん。75歳。もともと沖縄水産高校の教師だったが、遠洋漁業者に転身してフィリピン、パラオ、サイパン、モーリシャスと海の世界で生きてきた。95年にビトゥンに移り住み、日本人の墓があったはずの場所に家が建てられ、草木や土に覆われているのを目の当たりにした。そこで、マナドやビトゥンで土を掘り起こして墓を見つけ出し、移設。慰霊碑も作り、墓を見守っている。
 また、落下傘部隊とも関わる海軍将兵の慰霊碑がやはりビトゥンのマルク海を見下ろす高台に建立されている。長崎さんは月に2、3度、ここも訪れて雑草を刈り、墓標の文字をきれいにしている。この海軍慰霊碑は、呉市の建設業、大之木グループ代表の故大之木英雄さんが中心となって設置、毎年ここで慰霊祭を実施してきた。
 「先人の方々のお墓を大切にするのは当然のこと。苦労なんてありません。体が動く限りビトゥンで頑張ります」と話す長崎さんは今、日本で働きたいと希望するインドネシアの若者に日本語を教える活動もしている。現地の大学の先生と協働しての取り組みで、日本とインドネシアの草の根の交流を支える1人でもある。
 日本車がこれだけマナドで普及している理由はやはり車への「信頼」だろう。そして車だけでなく、長崎さんのような人が、その信頼を広げ、日本とインドネシアの「絆」を強くしている。(佐々川修二・マナド在住)

長崎節夫さん

長崎節夫さん

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