被爆75年プロジェクトあの日から現在、そして未来へ
益田崇教さん提供写真

益田崇教さん提供

原爆ドームとは

広島県物産陳列館の建設

 1915年(大正4年)4月5日、原爆(げんばく)ドームのもとの建物である「広島県物産陳列館(ひろしまけんぶっさんちんれつかん)」は、チェコの建築家ヤン・レツルの設計により、旧中島地区(きゅうなかじまちく)(現在の平和記念公園(へいわきねんこうえん)一帯)に建てられました。元安川(もとやすがわ)と本川(ほんかわ)の2本の川に囲まれたこの地区には、学校や病院、商店、住宅などの建物が並び、約4,400人が生活していたとされています。
 この建物は、軍隊が必要とする物資を中心とした地域経済の発展による、広島県産製品の販路開拓を目的として使用され、銅板の楕円形ドームが象徴的だった大胆なヨーロッパ風のモダンな外観は、たちまち広島のシンボルとなりました。

被爆前のようす

 1921年(大正10年)、物産陳列館は「広島県立商品陳列所(ひろしまけんりつしょうひんちんれつしょ)」と名前を変え、同じ年の4月には第4回全国菓子飴大品評会の会場となりました。その後1933年(昭和8年)に「広島県産業奨励館(ひろしまけんさんぎょうしょうれいかん)」となり、美術展が盛んに行われるなど、広島の文化拠点としても大きな役割を果たしました。
 しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まったころから、産業奨励館も戦争の影響を受け始めます。1944年(昭和19年)には館内の展示など産業奨励館としての業務はなくなり、官公庁や統制組合の事務所として使用されることになりました。

広島市市民局文化スポーツ部文化振興課提供写真

広島市市民局文化スポーツ部文化振興課提供

益田崇教さん提供写真

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土井一彦さん提供写真

土井一彦さん提供写真

原爆投下と被害

 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島の街に一発の原子爆弾(げんしばくだん)が投下されました。爆心地(ばくしんち)となったのは広島市細工町(現在の中区大手町1丁目)の島病院。上空約600mで爆発(ばくはつ)した原爆により爆心地一帯の建物は一瞬にして壊れ、人々が住んでいた街も火の海となりました。当時、広島市には住民だけでなく、軍人や付近で建物疎開(たてものそかい)作業をしていた動員、留学生などの外国人およそ35万人がいたと考えられています。1945年12月末までに推計で14万人(±1万人)が原爆によって亡くなられたとされていますが、実際の数は現在も正確には分かっていません。
 産業奨励館は爆心地から北西約160mの場所で被爆(ひばく)し、建物の中にいた人々は全員即死しました。建物は爆風(ばくふう)と熱線によって全焼しましたが、爆風が上方からほぼまっすぐに働き、楕円形ドームを覆う銅板が溶けて抜けたことで、現在のドームの形が残りました。

益田崇教さん提供写真

米国戦略爆撃調査団撮影、米国国立公文書館所蔵、広島平和記念資料館提供

益田崇教さん提供写真

米国戦略爆撃調査団撮影、米国国立公文書館所蔵、広島平和記念資料館提供

広島市市民局文化スポーツ文化振提供写真

原爆ドームの保存

保存に向けた取り組み

爆心地のすぐ近くで被爆しながらも、奇跡的にその形を残した産業奨励館は、いつしか人々から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。当時、建物の保存については『原爆の惨禍を後世に伝えるために残すべき』という意見と、『危険建造物であり、悲惨な思い出を呼び起こすため取り壊した方が良い』という二つの意見がありましたが、次第に保存を求める声が高まっていきました。
 原爆ドームの保存に向けた取り組みの本格的なきっかけとなったのは、被爆から15年後に白血病で亡くなった高校生、楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」。この言葉に心を動かされた「広島折鶴(おりづる)の会」の子どもたちが保存の署名を始め、共感の輪が広がりました。
 保存を求める声が高まる中で、広島市議会によって保存が決議されたのは、被爆から21年後の1966年(昭和41年)のことでした。これによって広島市が開始した原爆ドームの保存工事のための募金活動には国内外から130万人以上が参加し、6,619万7,816円の寄付金が寄せられました。1990年(平成2年)には「広島市原爆ドーム保存事業等基金(ひろしましげんばくドームほぞんじぎょうとうききん)」が設立され、現在も原爆ドームを永久に保存するための事業を行っています。

カラーの原爆ドーム

原爆ドームの保存

保存に向けた取り組み

 爆心地のすぐ近くで被爆しながらも、奇跡的にその形を残した産業奨励館は、いつしか人々から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。当時、建物の保存については『原爆の参加を後世に伝えるために残すべき』という意見と、『危険建造物であり、悲惨な思い出を呼び起こすため取り壊した方が良い』という二つの意見がありましたが、次第に保存を求める声が高まっていきました。
 原爆ドームの保存に向けた取り組みの本格的なきっかけとなったのは、被爆から15年後に白血病で亡くなった高校生、楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」。この言葉に心を動かされた「広島折鶴(おりづる)の会」の子どもたちが保存の署名を始め、共感の輪が広がりました。

保存を求める声が高まる中で、広島市議会によって保存が決議されたのは、被爆から21年後の1966年(昭和41年)のことでした。これによって広島市が開始した原爆ドームの保存工事のための募金活動には国内外から130万人以上が参加し、6,619万7,816円の寄付金が寄せられました。1990年(平成2年)には「広島市原爆ドーム保存事業等基金(ひろしましげんばくドームほぞんじぎょうとうききん)」が設立され、現在も原爆ドームを永久に保存するための事業を行っています。

カラーの原爆ドーム

世界遺産登録へ

 被爆から47年後の1992年(平成4年)9月、日本の世界遺産条約(せかいいさんじょうやく)への加盟をきっかけに原爆ドームの世界遺産化への声があがり、広島市は国へ要望書を提出しました。1993年(平成5年)6月には、原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願(こっかいせいがん)のための署名運動が全国展開され、165万人を超える人々が参加しました。この他にも、広島県議会・各市町村議会の意見書が採択されたことなども大きな力となり、1996年(平成8年)12月、原爆ドームは「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍(さんか)を如実(にょじつ)に伝え、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和(こうきゅうへいわ)の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑(へいわきねんひ)」として世界遺産に登録されました。

AR風の原爆ドーム含む周辺の写真
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推奨環境

Apple社製iPad第七世代以降のタブレット端末

iPad OSバージョン13.x(2019年9月24日リリース)以降のOSを搭載している必要があります。

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