
第2回【宇賀大橋】
長さ140メートル 床板の通学路
(広島市安佐北区)
第3回【恐羅漢山の樹氷】
雪深い奥山 自然の造形美
(広島県安芸太田町)
第4回【JR可部線の旧田之尻駅】
流域支えた鉄路 余韻今も
(広島県安芸太田町)
第5回【那須の隠れ滝】
豊かな水 「消滅集落」に光
(広島県安芸太田町)
第6回【湿原の足跡】
八幡の潤い 動植物を育む
(広島県北広島町)
プロローグ【再生のシンボル】
都市の浅瀬 命つなぐアユ
(広島市安佐南・安佐北区)
第1回【デルタの輝き】
水も電気も 暮らしの基盤
(広島市)
第19回【オオサンショウウオ】
「地域の宝」住民で見守る
第20回【都市の干潟】
多様な命育み 水の浄化も
(広島市中区)
第21回【川漁と沈下橋】
落ちアユ、世代超えて追う
(広島県安芸太田町穴)
第22回【サツキマス産卵】
ダム湖で成長 恋に色づく
(広島県北広島町)
第23回【水源の森】
流域潤す財産 守り続けるく
(広島県安芸太田町筒賀)
第2回【宇賀大橋】
長さ140メートル 床板の通学路
(広島市安佐北区)
第3回【恐羅漢山の樹氷】
雪深い奥山 自然の造形美
(広島県安芸太田町)
第4回【JR可部線の旧田之尻駅】
流域支えた鉄路 余韻今も
(広島県安芸太田町)
第5回【那須の隠れ滝】
豊かな水 「消滅集落」に光
(広島県安芸太田町)
第6回【湿原の足跡】
八幡の潤い 動植物を育む
(広島県北広島町)
デルタに発展した広島にとって
「母なる川」である太田川。
標高1339メートルの冠山一帯の森を源流に、
中国山地を南東方向へ曲流を重ね、広島湾に注ぐ。
相次ぐ災害やコロナ禍で
自然の豊かさや脅威が再認識されるいま、
全長103キロの太田川と流域を訪ねて、
その恵みと営みを見詰める。
第24回【総集編】
巡る水と命 輝き未来へ
西中国山地から曲流を重ね、デルタの広島市街で6本に分かれて瀬戸内海につながる太田川。1年間の写真連載で、全長103キロの川と流域を巡った。生き物たちは多彩なドラマを見せてくれた。繊細に、雄大に表情を変える川や森に何度も息をのんだ。相次ぐ災害や新型コロナ禍での人々との関わりにも焦点を当て、身近な川の大切さをかみしめた。総集編として取材を振り返り、恵みと営みを未来へつないでいきたい。
どこまでも透き通る水を太田川の支流で見つけた。生き物たちも息を潜める初冬、水中のカメラで見上げると、陽光がきらきらして水の青さが際立った。
約1年2カ月の取材でほぼ毎日、太田川流域に通った。車の走行距離は2万5千キロに迫る。川にすむ生き物や人々の暮らしをレンズ越しに見つめてきた。
とびきり澄んだ水をたたえる一方、古くから電源開発が進んだ太田川水系ではダムや堰(せき)の建設もあって手付かずの自然は限られている。とはいえ流域の動植物や景観、歴史は豊かだ。それらを守り、後世に残そうと取り組む人たちの努力と熱意に打たれた。連載タイトルとした「太田川 恵みと営み」を将来に引き継ぐには何が必要なのか―。考え続けた。
11月中旬。恐羅漢山の今季初の積雪を撮影するためヘリコプターで差し掛かった安芸太田町の上空で眼下に大きな虹が見えた。強い風に揺られながらもパイロットと相談して狙う。超広角レンズのカメラのシャッターを押すと、くっきりとした円形の虹が写った。
蛇行する太田川と集落に架かる丸い虹はまるで、巡る四季のようにも、川と海を往来する生き物たちの命の循環のようにも、自然や文化を次代へとつなぐ人々の輪のようにも思えた。自問と驚きの連続だった取材の終盤で偶然にも一つの答えを見つけた。
(写真と文・安部慶彦)
【インタビュー】
太田川と流域の自然やくらしを大切にして、川に親しむ活動や災害への備えに力を注ぐ人たちに数多く出会った。皆さんの想いや新たな動きを紹介する
国土交通省太田川河川事務調査設計課長
山下篤志さん(44)
淡水生物研究家
内藤順一さん(71)
NPO法人「三段峡―太田川流域研究会」事務局長
本宮宏美さん(44)
市民グループ「River Do!基町川辺コンソーシアム」代表
西川隆治さん(57)
【四季折々 感動のドラマ】
<秋から冬>
取材を始めたのは昨年10月。広島市安佐北区と安佐南区にまたがる太田川下流で、太田川漁協や市が秋にアユの産卵場を造り、近年は多くの親魚が集まっていると聞いた。都市の浅瀬で繰り広げられる生命のバトンをまず撮ろうと決めた。
1カ月通ったが、群れは見えない。焦りを抑え、アユを狩るカワウやミサゴを追う。11月上旬、産卵場の近くで魚影の黒い塊が動いた。水面に揺れる無数の背びれ。水中にカメラを据えて、待つ。婚姻色を帯びた群れがレンズの前で躍った。
冬、数々の神秘的な景色に出合えた。瀬戸内の島々がオレンジ色に染まった夕刻、澄んだ空気をヘリコプターから味わう。デルタの光景に息をのんだ。放射状の川筋が都市の明かりに浮き立っていた。飲み水だけでなく農工業用水や発電などで流域を支える川の恵みの象徴と感じた。
長いつり橋を渡って通学するマスク姿の児童、JR可部線旧駅舎や過疎集落の「隠れ滝」を守る住民たちのそばにも川があった。
数年ぶりの大寒波となった今年1月中旬。広島県最高峰の恐羅漢山(安芸太田町、1346メートル)を目指した。かんじきで新雪を踏み、凍った頂へ。樹氷をまとうブナや杉の造形美にのまれた。太陽がのぞくと氷が解け始めた。水源の豊かさの訳が分かった。
<春>
北広島町八幡地区の湿原では雪布団の下を縦横に水が流れ、生き物が活発に動きだした。広島市街地では3月下旬、例年より一足早く桜が満開に。西区楠木町の本川右岸の雁木(がんぎ)沿いも淡いピンクに縁取られた。スタンドアップパドルボード(SUP=サップ)の愛好者たちは花見の水上ツアーを満喫。コロナ禍の中、原爆ドーム周辺の桜並木も市民を見守っていた。
「日本の棚田百選」として知られる安芸太田町の井仁(にい)地区。代かきを終えた大小の水鏡が階段状に並び、大きな月が昇ると、水面をほんのりと照らした。新緑に映える渓流釣りは絵画のようだった。
<夏>
例年より早い梅雨入り後、太田川の水力発電の歴史を物語る「旧亀山発電所」(安佐北区)を訪ねた。漁協事務所となっているれんが造りの建物の壁が目当て。大正期以来の洪水時の水位が刻まれ、教訓を静かに伝える。
源流域では太古から脈々と命をつなぐ小型サンショウウオを探した。国特別名勝・三段峡ではV字谷の底から絶景を味わえた。
7月下旬の夕暮れ、広島市中区のおりづるタワーに上がると、原爆ドーム横の本川と元安川が紫に染まっていた。8月6日のとうろう流しは昨年に続いて縮小され、「広島 愛の川」の合唱が川辺を包み込んだ。
ダムがないことで知られる水内川(佐伯区湯来町)は水遊びの子どもたちで大にぎわい。清流をさかのぼるシャワークライミングで水と一つになった。
ただ、8月中旬の大雨が各地の川や三段峡などを一変させた。完成から半世紀余り、広島デルタを守り続ける太田川放水路も茶色の濁流が堤防上まで迫った。
<再び秋>
水害後、オオサンショウウオは無事に産卵期を迎えているのだろうか―。心配をよそに、上流部では数匹を見つけることができた。落ちアユ漁を次代に伝える川漁師の巧みな技にも目を見張った。
源流の森が赤や黄に彩られ、北広島町芸北エリアの柴木川では10月、恋の季節のサツキマスを追った。海の代わりにダム湖の聖湖で育った降湖型で、透き通る水中での産卵の瞬間をカメラに収めた。その力強さと命の尊さを忘れはしない。太田川の四季のドラマは続いていく。
第23回【水源の森】
流域潤す財産 守り続ける
(広島県安芸太田町筒賀)
「森の恵みが川と流域を潤す。だから人々は森を守ってきたんです」。涼風がササ原をなで、ブナは色づく枝を青空に広げている。カラフルな落ち葉が軟らかい。「ここは妖精の集う天空の森」。地元のトラベルセラピスト清水正弘さん(61)がそうたとえた。
太田川源流に近い立岩ダム湖の東側。市間山(広島県安芸太田町、標高1108メートル)から立岩山(同町・廿日市市、同1135メートル)にかけての尾根約2キロはブナなどの天然林が続く。見通しが利き、所々にある開けた空間も心地よい。
10月中旬、NPO法人三段峡―太田川流域研究会(同町)が開いたトレッキングツアーに加わった。市間山を目指し、杉やヒノキの人工林を急登。この朝は雨上がりで霧に包まれた。稜線(りょうせん)に近づくと光が増してきた。
この尾根筋を含む一帯で昨年、民間業者が高さ約150メートルの風車を最大36基造る大規模な風力発電計画が持ち上がった。同町と廿日市市、広島市佐伯区にまたがる開発総面積は約2700ヘクタール。同町のエリアは大半が町有林で全体の約3割を占める。
この町有林は、筒賀財産区(旧筒賀村有林)の一部だ。約2600ヘクタールの財産区の大半は人工林だが、ツアーで歩いた尾根筋や南東のブナなどの天然林は高度経済成長期、当時の村長による熟慮で残したという。
合併前の「村有林のあゆみ」に先達の思いがにじむ。一帯は江戸時代の「入会山(いりあいやま)」に始まり、明治23(1890)年に村有林となった。同35(1902)年、国有化された一部を裁判で取り戻している。戦後も村財政を支え、2004年の安芸太田町誕生後は財産区として守られてきた。
こうした歴史や防災の観点から町は今年7月、今回の風力発電計画にノーの決定をした。元村農林課長で、筒賀財産区管理会の角田伸一会長(73)は「尾根筋を開発すれば、水の流れが変わってしまう。水源を守ることが災害に強い地域づくりにつながる」と話す。
立岩山の頂からは、豊かな森や眼下のダム湖を見渡せる。ツアーの一行は、南へ渡っていくアマツバメの群れにも出合えた。
紅葉を過ぎた11月中旬、上空から市間山と立岩山を結ぶ稜線を望むと、かなたに広島市街地や瀬戸内海が見えた。この一帯から下る太田川は155万人を潤す。水源の森は穏やかに冬支度をしていた。
(写真と文・安部慶彦)
ブナなどが色づく「天空の森」を歩くトレッキングツアーの参加者
高度約3千㍍から立岩ダムを見下ろす。左上が広島市街地。広島湾も見えた
色鮮やかな落ち葉が登山道を覆っていた
霧に包まれた杉などの木立の中を急登する
旧筒賀村(現広島県安芸太田町)の村有林として守られてきた天然林が紅葉していた
古木に群生する白いキノコ
夕日に染まる晩秋の太田川
尾根伝いに見通しの良いブナ林を進む
太田川の水は源流域から100㌔余り流れ下り、瀬戸内海に注ぐ
"森の豊かさの指標の一つとされるブナ
市間山(左上)から立岩山(手前)にかけての尾根約2㌔に連なる天然林(小型無人機から)
太い幹が二手に分かれたブナ。間もなく、冬の静けさに包まれる
太田川沿いのススキが夕日を浴びて金色に輝いた
第22回【サツキマス産卵】
ダム湖で成長 恋に色づく
(広島県北広島町)
西中国山地が色づき始めると、太田川の源流域でサツキマスの産卵がピークを迎える。いずれも婚姻色である鮮やかな朱を帯びた雄と、さび色の雌が繰り広げる命の営み。10月中旬、その瞬間に出合えた。
広島県北広島町の八幡高原を縫う柴木川。千メートル級の山裾の清流で、体長40センチほどのペアを見つけた。雌が時折、体を倒して尾びれを川底にたたき付け、砂や小石を巻き上げる。産卵の床を掘る動作だ。雄は果敢に他の雄を追い払う。
待つこと1時間。寄り添う2匹が口を大きく開いて小刻みに体を震わせた。わずか2秒の産卵だった。
サツキマスは、本州の太平洋側や四国で水温の低い上流にすむアマゴが海へ下って大きくなり、母川に戻る降海型。海の代わりにダムや湖で育つ降湖型と、冷涼な高地でアマゴのまま一生を終えるタイプがいる。
柴木川上流のサツキマスは降湖型だ。アマゴが銀化と呼ばれる変態後に下り、八幡高原の南方にある樽床(たるどこ)ダムの聖湖(ひじりこ)=北広島=で成長。その後、産卵のため遡上(そじょう)する。
NPO法人西中国山地自然史研究会(同町)は観察会も開いて保護に力を注ぐ。淡水生物研究家の内藤順一さん(70)=府中町=と故田村龍弘さんは約30年前、標識アマゴの放流調査をした。聖湖では約1年でサツキマスになり、降海型と同様に寿命は産卵までの2年と分かった。
文献「太田川史」によると、ダムや堰(せき)が造られる前の太田川は、中部地方の木曽川などと並ぶ全国有数のサツキマスの生息地だった。だが、人工の「壁」が遡上をはばむ。研究会の近年の調査では、いわゆる降海型は三段峡正面口に近い柴木川ダム(安芸太田町)付近まで上るという。内藤さんは「サツキマスはさまざまな変化に順応して生命を残してきた。川や湖、海とつながる水環境の指標だ」と評する。
聖湖では昨年、生息環境を守る活動が始まった。地元の八幡川漁協と釣り人たちによる「聖鱒(ひじります)プロジェクト」。冬場に1日だけ外来種の捕獲調査日を設けてブラックバスなどを除き、アマゴを放流している。片桐義洋組合長(49)は「サツキマスに魅了された人たちの思いが『幻の魚』を守り、川や湖の保全にもなる」と期待する。
(写真と文・安部慶彦)
雄(右)と雌が寄り添って産卵のタイミングを図る。産卵期は婚姻色が鮮やかになる
柴木川がカーブしながら聖湖(奥)へ流れ込む。このダム湖で、川を下ったサツキマスが大きく育つ
水温の低い上流部で、産卵床を守るサツキマス
八幡川漁協の片桐義洋組合長。個人で養魚場を経営し、「芸北あまご」のブランド化を進める
雄は成長すると、サケ科の特徴である「鼻曲がり」状態になる
ススキに覆われた八幡高原に秋の夕日が差し込んだ
養魚場で育つアマゴの群れ。水中からカメラでのぞくと、1匹が青空を泳いでいるよう
高さ42メートルの樽床ダム。柴木川はここから国特別名勝の三段峡を経て太田川本流に出合う
産卵床の付近で他の魚を追い払うサツキマス
サツキマスが産卵を終えるころ、聖湖周辺は本格的な紅葉シーズンとなる
サツキマスをはじめ多くの生き物をはぐくむ聖湖
産卵に集まったサツキマスに交じって泳ぐアマゴ(下)。サイズはかなり小さいが、同種であるため産卵に割り込もうとする
三段峡正面口に近い柴木川ダム。魚道がないため、この手前まで遡上(そじょう)する降海型サツキマスが確認されている
樽床ダム下流の柴木川にある三段峡の三段滝。周囲の紅葉とのコントラストが美しい
第21回【川漁と沈下橋】
落ちアユ、世代超えて追う
(広島県安芸太田町穴)
「ケツ(船尾)を下へ向けて」。へさきに立つ相棒の声に、川漁師の猪訓(いの・さとし)さん(86)=広島県安芸太田町穴=がゆったりした櫂(かい)さばきで舟を操る。朝霧は散り、空が明るさを増す。幅数十メートルの川に沈めた帯のような網を手繰ると、かかったアユが体をしならせた。
秋の深まりとともにアユは産卵のため川を下る。その落ちアユを狙うのが建網漁。太田川では上中流域で今も続けられている。中流の程原集落で最古参という猪さんの川舟に乗せてもらった。
辺りは流れが大きくカーブし、集落対岸に観音さんの見守る岩場がある。かつては陸路の難所で、真下に淵が広がる。暗いうちに沈めた七つの網を上げる作業で午前7時、低い沈下橋の「程原橋」のたもとからこぎだした。
木舟は長さ8メートル、幅1・2メートル。船尾の舵子(かじこ)の猪さんと、へさきの竹久一之さん(68)が絶妙な息で舟を上流へ滑らせ、網を回収しては岸へ戻る。木組みの横棒に網をカーテンのようにつるし、獲物を外す。ウグイやニゴイも混じり、この日は20匹に届かなかった。
建網漁は地域ごとに漁業者の数や縄張りが決まっており、共同で担う。夜中に灯火をたいて網に追い込む「夜建」と、未明に網を張る「昼建」がある。数隻で夜昼ともに繰り出し、「一晩で千匹以上取れたこともあった」と猪さん。「30~40年前の全盛期は住民総出よ。アユを広島の市場に運ぶ業者もおった」と語る。
程原の住民と太田川との関わりの深さは、流域唯一の沈下橋にも刻まれている。2000年の橋完成まで、「最後の渡し舟」があった。約130メートル離れた両岸をつなぐワイヤを舟に乗って手繰る方式で登下校にも使われた。
谷間を縫う太田川では古来、川舟が物流や交通、漁を支え、渡し舟が地域をつないだ。しかし、水運は車や鉄道に替わり、ダム建設の影響や担い手減で多様な漁も細った。主に中流を管轄する太田川漁協(広島市安佐北区)によると、建網漁は1976年に170人が登録していたが、現在は54人に減っている。
猪さんは、船頭の祖父や父親から川漁の技を継いだ。今季最後となった漁の日、長男で会社員の龍二さん(60)が駆け付けた。数年前から操船と漁の手ほどきを受けている。「川と向き合うおやじの背中を追っていきたい」
(写真と文・安部慶彦)
川舟を岸に揚げ、つるした網からアユを外す猪さん㊧と竹久さん
早朝、沈下橋を背に川舟を操る猪(いの)訓(さとし)さん
水中で網にかかったアユ。未明に仕掛け、朝の動き出しを狙う
漁前日の夕方、沈下橋のたもとで準備する猪さん(小型無人機から)
秋色に染まる山々を映す川面。建網(たてあみ)漁の舟が点描となる
9月下旬の建網漁では20センチを超す良型のアユが多く捕れた。均等に分けるのがルールだ
沈下橋に腰掛け、川の様子を見る猪さん。生粋の太田川育ちだ
夜の漁に使う明かりのカーバイト
カーブを重ねる太田川中流域。手前が沈下橋で、右上がかつて難所だった岩場(小型無人機から、連続撮影した3枚を合成)
秋晴れの下、漁を終えた川舟が沈下橋をくぐり戻ってきた
漁網の手入れをする猪さん。作業場には、修繕を頼まれた網が並ぶ
猪さん㊨の漁を手伝う長男の龍二さん。川漁師の技が受け継がれていく
穏やかな川面。淵の深いところは水深10メートルを超える
第20回【都市の干潟】
多様な命育み 水の浄化も
(広島市中区)
大潮の数日前、砂と泥の川底が一面の干潟に変わった。広島市街を流れる京橋川。エノキの大木が根を張る岸辺に座り、石になる。
数分後、カニの世界が動きだした。アシハラガニやベンケイガニは食事で立派なはさみを振り、無数の小さな巣穴からチゴガニが顔を出す。下流側のアシ原もがさごそとにぎやかだ。
JR広島駅から北西へ約1・2キロ。この辺りで直角に曲がる川の内側に沿う白潮公園(中区白島九軒町)は、緑の濃い土手から干潟へ下りることができる。9月中旬の自然観察会では、家族連れたち約100人が干潟やアシ原へ入り、カニ探しに夢中になった。
開いたのは広島干潟生物研究会。「生き物に触れて名前を覚えよう」と、くやみつお事務局長が子どもたちに語り掛けた。「デルタの干潟は埋め立てられて護岸もコンクリート化が進み、市中心部で天然の干潟が残るのはここくらい」。一帯は川幅が広く流れが緩やかで、後背地が公園のため開発も免れたという。希少なハマガニなどカニだけでも約10種類がすむ。
広島デルタの6本の川は海水と淡水が混じり合う汽水域で、満潮と干潮を通常1日2回繰り返す。さらに干満差が最大約4メートルと大きいのも特徴で、干潟やアシ原、泥地は多くの生き物のすみかになる。代表格のカニは流れ込む有機物などを食べて分解し、土中の巣穴は水の浄化に役立つという。
貴重な干潟の保全は市民の力でもある。アシ原を刈るなど手入れをしている「京橋川かいわい あしがるクラブ」代表の山本恵由美さん(59)は「広島ならではの自然。若い人も巻き込んで守り継ぎたい」。
研究会メンバーで、広島デルタを主な調査地とする少年3人が、カニの進化の過程に迫った。水中生活から干潟や陸に上がる段階で、呼吸器官のエラをどう変化させたのかを探り、日本甲殻類学会で発表した。昨年、世界の中高生の科学研究を支援する財団マナイ(東京都)の助成も得た。
「多様な生き物がすむ環境を知り、守ることが、自分たちの生活も良くすると思う」と、リーダーで広島学院高1年の石川直太郎さん(15)。幸いにも都市の片隅に残された干潟が、未来の扉を開いている。
(写真と文・安部慶彦)
アシ原を歩きながらカニを探す観察会の参加者。左側が白潮公園
大潮の数日前で、川の中ほどまで水が引いた干潟
主にアシ原(奥)でくらすアシハラガニ
大きなハサミが特徴のアシハラガニ
干潟でカニを探す子どもたち
クモに似たヒトハリザトウムシ。環境省の準絶滅危惧種で、白潮公園の岸辺には貴重な生き物がすんでいる
海と川の水が混じり合う汽水域は、生き物の宝庫だ
砂泥地に並ぶ無数の小さな巣穴を見つめる子どもたち
干潟のあちこちに転がる流木の下はカニのすみかだ。そっとのぞき込む
晴れの青空が広がる。両手の赤いアカテガニが映える
水面から突き出すように目を出すヤマトオサガニ。JR広島駅周辺の再開発地そばで観察できる
観察会では、干潟でカニの研究をしている高校生(右端)も案内役を務めた
アシ原で生き物を探す子どもたち
第19回【オオサンショウウオ】
「地域の宝」住民で見守る
広島市の北東端、安佐北区白木町の山あいを流れる三篠川の支流。近くに住む佐々木恒さん(77)たちが、崩れたコンクリート護岸へ視線を投げた。側壁の下の隙間は8月中旬の大雨で土砂に埋もれた。以前は、国特別天然記念物のオオサンショウウオが巣穴に使い、産卵した年もあった。
「すみ着いて10年。地域の宝として見守ってきた。無事でいてくれたら…」
近年の豪雨や土砂災害によって、太田川流域でも居着いた「ヌシ」の姿が見えなくなるケースが増えているという。市立安佐動物公園(安佐北区)の元副園長で日本オオサンショウウオの会の桑原一司会長(71)=同区=は「いったん下流へ流されると、ダムや堰(せき)を越えて戻ることができない。上流の産卵巣穴にたどり着けず、繁殖できない」と心配する。
イボが並んだヌルリとした肌と岩のような黒い斑紋が特徴で、全長1メートル超になる世界最大級の両生類オオサンショウウオ。太古から中国山地の河川などにすみ、太田川水系では主に上流域に繁殖地が点在する。
9月に入り、源流に近い廿日市市吉和を訪れた。繁殖期で動きが活発になるという。棒先に付けたカメラで川底の岩の隙間をのぞくと、じっと潜む一匹がいた。大きな口を開けたり、鼻を水面に出して息継ぎしたり。近くの水路では流れをさかのぼる姿もあり、力強さと尊さを感じた。
安佐動物公園では1971年の開園以来、この「地域の宝」の飼育・研究と展示を続けてきた。実際の川で生態を解き明かしつつ、79年に国内で初めて飼育下での繁殖に成功。この半世紀で99回を数え、国内外の動物園などに計395匹を送り出した実績もある。
ただ、オオサンショウウオの古里を守れるのはそこに住む人たちである。同園は江の川水系の調査地である北広島町志路原の住民と2003年から、人工巣穴の掃除や自然学習で手を携える。田口勇輝技師(40)は「繁殖技術を高めながら、地域の川での保全にも貢献していきたい」と話す。
三篠川中流域の安佐北区狩留家町では、今夏の大雨後も4匹が姿を現した。9年前から同園と観察会を開いているNPO狩留家の黒川章男理事長(80)は「古里の川への住民のまなざしが変わってきた。まさに地域と環境のシンボルです」。
(写真と文・安部慶彦)
水路の流れの中を進むオオサンショウウオ。初秋の繁殖期は動きが活発になるという
8月の大雨で護岸が崩れた三篠川の支流。土砂に埋もれた巣穴を見る佐々木さん㊨たち(広島市安佐北区白木町)
川底を歩くオオサンショウウオ。西日本だけに生息する日本固有種で「生きた化石」と呼ばれる。茶色に黒い斑紋はコケが付いた石そっくりだ
清流の岸辺に咲く花が秋を告げる
息継ぎのため水面に鼻を出す
安佐動物公園で展示している全長150・5㌢のオオサンショウウオの標本。確認例では最大。広島県高宮町で保護され、2002年に死んだ
頭部をイボが覆う成体。ずんぐりとした体、小さな目など独特の風体が「きもかわいい」と人気
穴に潜むオオサンショウウオの前をアマゴが通り過ぎた
生涯を水の中で過ごす。日の光を浴びて動き回っていた
ヒガンバナが三篠川(安佐北区)の支流沿いに彩りを添える
中国山地の清流で、太古からその姿をほとんど変えることなく命をつないできた
広島市安佐北区白木町で見守ってきたオオサンショウウオの写真を紹介する佐々木恒さん
水中の岩陰で口を大きく開けるオオサンショウウオ
安佐動物公園の元副園長で日本オオサンショウウオの会会長の桑原一司さん。手前は同公園50周年記念の冊子
第18回【放水路の本分】
氾濫防ぐ「デルタの守護神」
(広島市)
「広い河川敷が濁流に覆われて、堤防のかなり上まで迫ってきた」。広島市街の西端を流れる太田川放水路。茶色く波打ち、丸太やタイヤも下っていく。最上流に架かる祇園大橋(安佐南区、西区)近くに住む休石正祀さん(81)は、この夏の増水に怖さを覚えた。
水位のピークは8月14日昼ごろ。市北部の根谷川や三篠川で氾濫危険の値を超えた。祇園大橋観測所でも氾濫注意の段階となり午後0時50分、5・88メートルまで上昇。2005年9月の台風14号で記録した過去最高の6・11メートルに迫った。
直線的で幅約450~280メートル、長さ約9キロの「放水路」は人工の川だ。国土交通省太田川河川事務所によると、デルタ北端の本流分岐では通常、祇園水門から放水路に1割、大芝水門側の5河川に9割の水を流す。緊急時は放水路の流量を大幅に増やす。両水門の最大想定流量は毎秒計8千トン(放水路同4500トン、5河川同3500トン)で、超えたケースはない。
増水に耐えた後、ツイッターには「放水路ありがとう」「デルタの守護神」などのコメントが並んだ。
毛利氏による築城以来の洪水との闘いのなか、国が放水路建設に着手したのは1932(昭和7)年。当時の市街地7河川のうち、西側の山手川と福島川を1本にして広げ、堅固な堤防を築く。本流分岐には2水門を設けて流量調整する計画。ただ一筋縄にはいかなかった。
着工当時、計画地には数百戸の民家や学校、鉄道があり、畑や竹林も広がっていた。一方、戦争で予算も人員も削られ、44年に中断。戦後の51年に本格再開した後も、用地買収や鉄路かさ上げなど難題に追われた。両水門が完成した65年に通水し、36年の歳月をかけて太田川の一大改修事業は68年3月に完成した。
記録映画製作者の故森利太さんは建設中を含めて40年以上、放水路を撮り続けた。手掛けた作品は、同事務所が2014年、DVDにして市内の小学校に贈った。長女で編集者の正本真理子さん(70)=中区=は「デルタ(市民)を守り、自然も豊かな放水路に父はほれ込んでいた」と話す。
夕刻、上空から眺めた。広島湾へ向かう太い線に大小24の橋が趣を添え、河川敷では散歩姿も見えた。穏やかに本分を果たす、堂々の放水路だった。
(写真と文・安部慶彦)
河川敷が漬かり、堤防まで濁流が迫る。手前は太田川放水路の祇園大橋、奥は祇園水門。右上は大芝水門から本川(旧太田川)へ分かれる(8月13日)
干潮時に現れる干潟。子どもたちが水遊びをしていた
夕日を浴びて輝く太田川放水路
新庄橋近くの河川敷に整備されたグラウンドゴルフ場。夕方、芝生の上に人影が伸びた
砂地で羽を休めるシラサギ(奥)やカモ。自然の豊かさも感じさせる
海側から見た広島デルタ。太田川放水路(左端)など6本の川が市街地を流れる
太田川本流の水量を二手に分けて調整する祇園水門㊨と大芝水門
幅が広く直線的な放水路では、ウォータースポーツを楽しむ姿も見られる
太田川放水路の鉄橋を渡るJR可部線。放水路建設に伴って現在のルートに変更された
太田川放水路の護岸は市民の憩いの場でもある。旭橋(手前)と太田川大橋が見える
河口側から見た太田川放水路。ほぼ直線に川筋が伸びる
夕暮れの放水路、犬たちが穏やかな流れで水浴び
潮が引いた干潟に砂紋が現れた
雨が上がった後も増水の危険性を電光掲示で知らせる。手前が祇園水門で奥が大芝水門
国道2号バイパスの明かりが太田川放水路の流れと交差した
第17回【祈りの川】
鎮魂と平和 願いを浮かべ
(広島市中区)
8月6日の夜、原爆ドーム(広島市中区)たもとの元安川で300個余りの灯籠が淡い光を放った。NPO法人子どもの未来と平和を考える会(佐伯区)のメンバーが川面をロープで囲み、祈りの明かりを一つに束ねた。橋や護岸からは多くの人が見守っていた。
「眠くなるような美しさ」。被爆作家の大田洋子がたとえたデルタの川は76年前、一発の原子爆弾で変わり果てる。代表作「屍(しかばね)の街」に、母や妹と逃れた白島(現中区)辺りの太田川の河原の様子を克明に記した。干潮時の白い砂原は傷ついた群衆で埋まり、「河は炎々と燃えていた」。翌朝、「そろそろと死の幕がひらきかかっていた」。
爆風と熱線を浴び、水を求めて命を落としたあまたの人々。鎮魂と平和への願いを込め、元安川に7千個の灯籠をともす「とうろう流し」は、新型コロナ禍によって今夏も中止された。市中央部商店街振興組合連合会(中区)などでつくる実行委員会のメンバーたちは6日夕、ドーム対岸の親水テラスから12個を川面にそっと浮かべた。
連合会の若狭利康専務理事(65)によると、終戦から数年後、親族や知人を失った遺族たちが供養にと、手作りの灯籠を流したのが始まりという。六つの川のあちらこちらで催され、復興の花火も打ち上げられた。
元安川では、1955年ごろから地元商店主たちが開催。96年にテラスができ、市民が自ら流せるようになった。環境面も考えて、市内の灯籠流しは元安川に集約された歴史がある。
原爆の日の夕暮れ。テラスの流灯式では今年も、穏やかなメロディーと中高生たちの合唱が響いた。
愛を浮かべて川流れ/水の都の広島で/語ろうよ川に向(むか)って/怒り、悲しみ、優しさを/ああ、川は広島の川は/世界の海へ流れ行く(歌詞1番)
小学1年の被爆体験を基に漫画「はだしのゲン」を描いた故中沢啓治さんが、闘病中に川辺で詠んだ詩「広島 愛の川」。遺作に心打たれ、曲をつけた作曲家山本加津彦さん(42)=東京都=は「川に優しさを感じる。太田川が海へ広がるように、市民の願いと平和の歌を伝えたい」。灯籠とともに祈りの川で受け継がれていく。
(写真と文・安部慶彦)
ドーム対岸の親水テラスでは、とうろう流し実行委員会が灯籠12個を浮かべた。「広島 愛の川」を合唱した二階堂和美さん(左端)たちも手を合わせた
6日早朝、親水テラスに対岸から朝日が差し込んだ
6日朝、元安川のほとりで手を合わせる若者
5日夜、平和と鎮魂の祈りを込めたかがり火が元安川と原爆ドームを照らした
7月下旬、本川と元安川の分岐点近くの街路樹に千羽鶴がささげられていた
原爆が投下された午前8時15分、爆心地に向かって黙とうする子どもたち
おりづるタワーから見た原爆ドームと街並み。7月下旬、元安川(手前)と本川(奥)が夕日に染まった
灯籠の回収を担当した、スタンドアップパドルボード(SUP=サップ)の愛好者。パドルをつないで祈りをささげた
原爆ドーム前の護岸に並べられた灯籠。平和を願うメッセージやイラストが描かれている
6日早朝、元安川に献水する姿が見られた
黙とうの後、原爆ドームの対岸でバラの花びらを川面に浮かべる人たち
6日の夜になっても、原爆ドーム周辺に集まった人たちが静かに川と向き合っていた
親水テラスで「広島 愛の川」を合唱する二階堂和美さん(中央)や中高生たち
第16回【真夏の水内川】
川遊びの宝庫 水と一つに
(広島市佐伯区湯来町)
白いしぶきが舞う滝つぼをのぞき込む。高さ5メートルほど。水の音が勢いを増す。滝の頭で流れに体を預け、宙に浮いた瞬間、あぶくに包まれた。息を止めたまま一つ間を置いて、渦の中から浮上。思わず笑顔になった。岩壁からのジャンプも続き、歓声が響いた。
真夏の渓流をさかのぼるシャワークライミングのクライマックス。7月下旬、広島市北西部の佐伯区湯来町を流れる水内川(みのちがわ)の源流域でのツアーに加わった。
雲出トンネル先の林の中でヘルメットやライフジャケットを着け、親子連れたちと河畔へ。「冷たい」。声が漏れた。インストラクターから、川での安全な身のこなしや野生動物への注意を聞いて出発。陽光が木々の濃い緑を水面に映す。
岩場の急流でしぶきを浴び、四つんばいに進む。淵であおむけに浮かぶと、こずえや青空が広がった。泳いで大小の滝へ迫る。心も体も水に漬かり、川と一つになった。家族3人で南区から参加した小学6年の丸橋一輝さん(11)は「透き通った川は街の中とは全然違う。滝も最初は怖かったけど、飛び込んでみると気持ち良かった」と喜んだ。
西から東へ向かい太田川に注ぐ全長約26キロの水内川。ダムのない緩やかな流れで、同市や廿日市市の中心部から車で約1時間と近く、今もあちこちに川遊びの風景がある。カヌー体験や釣り堀も盛況だ。湯来温泉そばの湯来交流体験センター周辺は、新型コロナ禍に猛暑が輪を掛け、涼を求める家族連れが目立つ。
一方の太田川本流は、水質の悪化やダム開発に伴う水量の減少に安全面もあって、川遊びはめっきりと減った。水内川は旧湯来町時代の1985年、役場近くに広島県内唯一の河川プールができ、町内外の人でにぎわった。施設は2005年の市町合併で閉じられたが、その後も流域は川遊びの宝庫であり続ける。
シャワークライミングを催すNPO法人湯来観光地域づくり公社は、さらに磨きをかける。川辺のキャンプやサウナも始めた。移住して水内川にはまったという佐藤亮太理事長(36)は「透明度が高く周囲の緑も美しい。コロナ収束後は広島を訪れる外国人客にも日本の川の魅力を広めたい」と思い描く。
(写真と文・安部慶彦)
湯来交流体験センターそばの流れが緩やかな浅瀬で、大勢の家族連れたちが遊ぶ
高さ約5㍍の滝を流れ落ちる
腰まで漬かりながら清流をさかのぼる参加者。木漏れ日が差し込む
カヌーをこぐ子どもたち(小型無人機から)
ほぼ2階建ての家の高さから滝つぼに飛び込む
壁沿いに水しぶきを上げて進む参加者
陽光が反射する川で遊ぶ姿があちこちで見られた
潜って水中の生き物を探す。川は絶好の学びの場だ
川に浮かび、耳を澄ます。自然との一体感が味わえる
水内川であった小学生のカヌー体験。流れが緩やかで川幅もあるため初心者でも安全に楽しめる
水量豊かな小滝の岩場を真剣な表情で登る
太公望がさおを振るう。水内川のアユは味や形を競う全国大会で準グランプリに3度選ばれた
ウエットスーツにヘルメットを着け、清流を進むツアー参加者
国道488号に沿って流れる水内川(小型無人機から)
第15回【南峰が見た三段峡】
秘境の美と奇 川面の絶景
(広島県安芸太田町・北広島町)
足のすくむ断崖に岩を洗う奔流と暗い淵、両岸は四季折々に染まる樹林が覆う。国の特別名勝・三段峡(広島県安芸太田町・北広島町、約16キロ)の探勝路を歩くと、濃密な自然に感動と畏れが入り交じる。
「実は、探勝路も素晴らしいけれど、川に下りると別世界。南峰(なんぽう)がのめり込んだ景色を味わえます」。NPO法人三段峡―太田川流域研究会の本宮炎(ほのお)理事長(45)に誘われ、7月上旬、本流の柴木川を上る新たなツアーの下見に同行した。
「南峰」とは、1917(大正6)年に写真技師として、後に自ら名付ける三段峡に分け入った熊南峰である。江戸期の文書が記す「深山幽谷」の秘境。その美と奇にほれ込んで半生を懸け、三段滝や黒淵をはじめ峡谷全体の魅力を世に出した。南峰はわらじ履きで写真機を携え、千回以上も入峡したとされる。
その足跡をたどり、正面口から20分ほどで斜面を下ると、水の迫力に圧倒された。岸壁の裾を横ばいに進む。岩が階段状に並ぶ「ぐるの瀬」は、探勝路からは一見なだらかだが、渦巻く水が落ちていた。巨岩をすり抜けた先、こけむした川辺に沢の清水が流れ込む。
長さ約20メートル、高さ約8メートルの蓬莱(ほうらい)岩の上に立つと、大小の滝やふちを見通せた。峡谷屈指の天狗(てんぐ)ケ岳の絶壁が迫る。「これが南峰の見た景観そのもの」と本宮理事長。梅雨明け後に再訪し、ひときわ澄んだ流れにも出合えた。
南峰には盟友がいた。奥山の猿飛、二段滝を踏査した教師の斎藤露翠(ろすい)だ。支流の横川(よこごう)川沿いの集落に赴任。南峰とは18(大正7)年に出会い、宣伝や国視察団の案内、観光に必要な旅館、探勝路の整備に心血を注いだ。25(同14)年に国名勝、53(昭和28)年の特別名勝指定で実を結ぶ。
2人による開峡から100年を経て、体験型レジャーや動植物の観察ツアーで三段峡を再発見する動きが広がる。正面口でホテルを営む高下務さん(73)は、南峰の写真をロビーに飾ってきた。創業者の祖父は南峰を峡谷へ案内したという。「時代は変わっても、先人の志を大切にしたい」。自身も南峰のルートをたどった感銘を語り継いでいる。
(写真と文・安部慶彦)
黒淵のほとりで植物を調べる本宮理事長(右端)たち
レンガを重ねたような岩壁の赤滝。タンスイベニマダラが付着している
峡内の原生林。三段峡名産のトチ餅の原料になるトチノキの巨木が自生する
三段峡正面口であった沢登りのトレーニング
黒淵に架かるつり橋。せせらぎが響く
探勝路の川側には転落防止用に石が積んである
大小の岩が階段状に並ぶ「ぐるの瀬」。奥は峡谷屈指の絶壁・天狗ケ岳
熊南峰が大正時代に上流側から見つけ出した三段滝。梅雨明け後の大雨もあって水量は多い
峡内でカヤックを楽しむ人も増えている
渓流の石の上で羽を広げたミヤマカワトンボ
正面口のホテルロビーに掲示している熊南峰の写真を紹介する高下務さん
正面口に建つ熊南峰の石碑。心血を注いだ三段峡を去る思いに触れた手紙が刻まれている
正面口近くにある巨大な狼石
こけむした岩場を慎重に進む
黒淵の岩壁の間をさおで進む渡船。峡谷美をじっくり楽しめる
第14回【ホタルの里づくり】
命の輝き ダム下流で復活
(広島県安芸太田町加計)
月の欠けた初夏の夜。高さ156メートルの温井ダム(広島県安芸太田町加計)を直下から仰ぐと、星がきらめき始めた。谷底から暗闇がにじみ、滝山川の大小の岩や草むらの間で小さな光が明滅する。交尾の合図は、命を紡ぐ輝きだ。川面に光線が波打っては消えた。
「10年ほど前から、ダムの下流でホタルが増えてきた」。約5キロ離れた加計の町で時計店を営む森脇智史さん(41)から聞いた。プロカメラマンでもある森脇さん。数年前、会員制交流サイト(SNS)で穴場を紹介した。アーチ式では黒部ダム(富山県)に次ぐ全国2位の高さを誇る温井ダムの威容も手伝い、人気スポットになったという。
2002年完成の巨大ダム建設で、広大な山林や集落の一部とともに峡谷も沈んだ。「昔もホタルはよう飛んどった」。集団移転した佐々木克己さん(83)は懐かしむ。
支流の滝山川や丁川が太田川本流と出合う加計の街を歩くと、ホタルをモチーフにした看板や欄干の飾りが目に付く。かつてはどの川でも見られた初夏の乱舞を取り戻そうと、町ぐるみでホタルの里づくりを進めてきた証しである。
中心となったのは、住民有志で1995年に発足した「加計ホタルを守る会」だ。行政の力も借り、飼育小屋でゲンジボタルの幼虫を育てたり餌のカワニナを集めたりして、会員数は300人を超えた。地元のさまざまな川で放流や生息調査も続けた会は2年前、ホタルが定着したことや会員の高齢化のため解散した。
元会員の杉田智利さん(68)は「地道な活動がホタルを呼び戻した。生活排水を減らすなど住民の協力も広がった」と振り返る。
会は最後の仕事として、地元の加計小に「ホタル文庫」を贈った。木造校舎2階の窓際に図鑑など自然に関する約250冊が並ぶ。
6月中旬の昼休み、太田川の学習をしている4年生がホタル文庫の前で、杉田さんたち元会員3人の話を聞いた。「なぜたくさんの本を」。栗栖沙弥さん(9)が尋ねると、杉田さんは答えた。「自然を好きになって、ホタルやいろんな生き物がすめる環境をみんなに守ってほしいからだよ」
(写真と文・安部慶彦)
加計小の「ホタル文庫」の前で、杉田さん(右端)たちから地元の自然について話を聞く児童
お尻を光らせるゲンジボタル。発光は雄と雌が交尾するための合図という
滝山川の川面を乱舞するホタル(連続撮影した40枚を合成)
アーチ式では全国2位の高さ156㍍を誇る温井ダム(小型無人機から)
滝山川で飛び交うホタルと満天の星(10秒ずつ連続撮影した297枚の写真を合成)
今は解散している「加計ホタルを守る会」が幼虫を飼育した「ホタルの館」。幼虫は地元の川に放流した
加計の町にあるホタルと、餌のカワニナのお墓
滝山橋の欄干にある、ホタルをモチーフにした飾り
加計の商店街の街灯にはホタルを描いた装飾が施されている
加計小の「ホタル文庫」で本を探す児童
「加計ホタルを守る会」の元会員杉田智利さんの自宅前にあるホタル情報板とオブジェ
ホタルが舞う月ケ瀬公園で咲くホタルブクロ。袋のような花に子どもがホタルを入れて遊んだことに由来する
第13回【小型サンショウウオの謎】
太古の命脈々 深山で共存
ブナ林の湧き水は夏前でもしびれるほど冷たい。冠山(廿日市市吉和、1339メートル)一帯で、小型サンショウウオを30年以上研究してきた元理科教諭、内藤順一さん(70)=広島県府中町=の繁殖調査に同行した。
太田川源流の細る流れをたどる。岩をめくっても姿は見えない。内藤さんが体長約15センチのハコネサンショウウオを見つけた。細長い背は鮮やかな赤褐色、くりんとした目に愛嬌(あいきょう)がある。のっそりタイプだが、急にはい進む。この深山で太古から命をつないできたという。
発見地の箱根にちなむ名で、本州中部以西にすむ。冠山一帯が生息地の南西限と絞ったのは、教職の傍ら休日に通い詰めた成果だ。両生類研究家の故宇都宮妙子さんと協力し、ハコネとともに、灰色と黄のまだらのヒダ(飛騨)、ブチの3種類を主に確認した。ハコネは夏前の産卵から4カ月余りでふ化し、幼生は水中で過ごして3年目に変態、森へ入ることも分かった。
地道に謎を解いてきた内藤さんは約10年前、耳を疑うような研究報告を学会で聞いた。「太田川源流域のハコネの中に、四国にすむハコネの仲間がいる」。瀬戸内海を挟んでなぜ…。
数年後に正式発表したのは、当時、京都大で研究していた国立科学博物館動物研究部(茨城県つくば市)の吉川夏彦研究員(39)。四国に生息する新種のシコクハコネサンショウウオと遺伝的に同じ種が冠山周辺にもいて、普通のハコネと共存しているとの内容だった。
吉川さんは学会後に連絡をもらった内藤さんと成体を探し出した。その後、内藤さんたちが以前出版した図鑑「広島県の両生・爬虫(はちゅう)類」に、1匹のシコクハコネが写っていたことにも気付く。標本の遺伝子を調べ、遠い四国との関連を裏付けた。
「数万年前の氷河期、瀬戸内海は陸続きとなり、四国側から北上した種が生き残ったのだろう」と吉川研究員は考察する。内藤さんは、冠山一帯は原生林が残されたため「古来の動植物が生き延びた」とみる。
広島県内の川の生き物を徹底的に調べ、守ってきた内藤さん。8年前に大病を患い、「知識や調査法を若い世代に引き継ごう」と心に決めた。今年、自らの歩みを本にまとめた。週末は研究者を志す学生たちと、小型サンショウウオの新たなロマンを追っている。
(写真と文・安部慶彦)
灰色と黄のまだら模様が特徴のヒダサンショウウオ
紫の体に褐色の斑紋があるチュウゴクブチサンショウウオ
ブナの原生林が、小型サンショウウオのすみかだ(魚眼レンズ使用)
こけむした岩肌と清流が美しい冠山一帯
鮮やかな黄色の線があるシコクハコネサンショウウオ(手前)と赤褐色のハコネサンショウウオ
湧き水が集まる川の岩をめくり、小型サンショウウオを探す内藤さん
川の中から愛らしい顔をのぞかせたヒダサンショウウオ
太田川の源流域をさかのぼり、希少な小型サンショウウオを探す
春に咲く高山植物のカタクリ
岩の下にいた小型サンショウウオの幼生
山地の沢沿いに生えるネコノメソウ
冠山の山頂付近
源流域の一滴が川となり、動植物や人々の暮らしを潤す
第12回【旧亀山発電所】
明治の建物 水害史伝える
(広島市安佐北区)
ほの暗いれんが造りの建物にツバメが戻ってきた。出入り口そばの壁。赤いペンキを引いた7本の横線が垂直方向に並び、高さと年月が記してある。「昭和18(1943)年9月3・8メートル、昭和20年9月3・3メートル、昭和47年7月…」
水力発電所がひしめく太田川水系で小規模を除き最古参の「旧亀山発電所」(広島市安佐北区可部町)は洪水の歴史を刻む。アーチ型の窓越しに、早い梅雨入りによる濁流が見えた。
草木が覆う赤れんがの洋風建物は広島電灯会社(現中国電力)が1912(明治45)年に完成させた。英国製の発電機3基を備え、山腹の水路を通じて水を集めた。川端の宿命である水との闘いを乗り越えたが、72(昭和47)年の「47水害」を受けて翌年に廃止された。その後、太田川漁協の事務所になった。
「かつては家も流された地域。発電所の2階まで漬かったこともある」。近くに住む上川秀彦さん(83)は水の怖さを知る。出水時には人力で発電機を台に引き上げた逸話も伝わる。
壁の最初の記録は「大正8(1919)年7月」。太田川工事事務所(現・国土交通省太田川河川事務所)の「太田川史」は「可部付近の被害も大きく」と記す。被爆直後の広島を襲った枕崎台風、その5年後と翌年に続いたキジヤ、ルース両台風、47水害や「平成17(2005)年9月」の台風14号など、三つの時代の水害に耐えた。
暴れる太田川の改修は昭和初期に始まり、戦後の放水路建設など下流のデルタに重点が置かれた。中流域や大半の支流は47水害後に主な対策が進んだ。
近年、気候変動による豪雨被害が深刻さを増す。太田川流域でも2014年に広島市で77人が犠牲になった広島土砂災害が起き、18年の西日本豪雨では可部で合流する三篠川で観測史上最大の流量となった。家や田畑が漬かり、同区白木町のJR芸備線第1三篠川橋梁(きょうりょう)は流されて復旧に1年余りを要した。梅雨の今もあちこちで重機の音が響く。
「歴史の証言者(物)」とされ来年が完成110年の旧亀山発電所は、市の道路拡幅で取り壊しの計画がある。同漁協の山中幸男組合長(74)は「忘れてはならない水害の記録は何とか保存したい」と考えている。
(写真と文・安部慶彦)
西日本豪雨で流され、復旧した第1三篠川橋梁を渡るJR芸備線。同川沿いでは護岸整備や橋の架け替えが続いている
赤れんが造りの洋風建物が目に留まる旧亀山発電所。太田川のすぐそばで水害を乗り越えてきた。広島市の道路拡幅で取り壊す計画がある
発電機の分解・組み立て作業に使ったクレーン(手前)や、漁協の資機材がある建物内部
建物外壁には、水害の記録を写し取った説明板がある。広く知ってもらおうと太田川漁協と太田川河川事務所が掲示した
太田川漁協の看板が掛かる旧亀山発電所正面
横線で示す洪水の記録で最も古いのは「大正8年7月」(中央)。下は昭和26(1951)年のルース台風の水位
3基あった英国製水力発電機のうち一つが残り、説明板もある
頭上よりはるか上に洪水の歴史が刻まれている
上空から旧亀山発電所を見ると、草木に覆われた貯水池跡が建物の山側に並ぶ(小型無人機から)
太田川㊧、根谷川㊥、三篠川の三川合流点。奥左が可部の町(小型無人機から)
三篠川沿いの広島市安佐北区井原地区では今も大規模な護岸工事が続く
蛇行する三篠川中流域
広島県安芸太田町坪野地区の太田川沿いにある治水遺構「水刎(はね)」。江戸末期に築かれたとされる(小型無人機から、3枚を合成)
第11回【渓流釣り】
熟練のさお 新緑に染まる
(廿日市市吉和)
まばゆい新緑に覆われた谷川は大小の岩を縫い、淵と瀬を重ねる。こぶのような大岩の間を虫が飛び交っていた。深みの陰に魚影が浮かぶ。かすかな音とともにライン(釣り糸)が放たれ、虫に似せた毛針が水面を流れる。静寂の中、さおが大きくしなった。
太田川の源である廿日市市吉和の冠山(1339メートル)。北側の中津谷(なかつや)渓谷一帯は広島県内屈指の渓流釣りポイントだ。中でも小川川(おがわがわ)と称する中津谷川支流の約4キロは、毛針で狙うフライフィッシングの専用区(予約制)。1995年、愛好者の要望を受けて地元漁協などが設けた。釣った魚を川へ戻すキャッチ・アンド・リリースに徹する。
5月初旬、専用区で夫婦に出会った。会社員の柿木一義さん(58)と美千枝さん(58)。交互に、長いラインをむちのように操って毛針を打ち込む。一義さんの一手に、勢いよく食い付いたのは渓流の女王と呼ばれるサケ科のアマゴ。体に朱点をちりばめた美麗な姿が透き通る水に映えた。この日はゴギも活発だった。
キャリア約30年の一義さんは「魚が何を好むか、季節や生態を考えて毛針を作るのも楽しみ」。美千枝さんも「自然と一体」の魅力にはまり、岩国市から夫婦で通って5年になる。「吉和は原生のブナもあり、この時季の川は特に素晴らしい」と口をそろえた。
地元では太田川を「吉和川」と呼ぶ。吉和川漁協によると、この地の渓流釣りを全国に広めたのは西村文甫(ふみほ)さん(80)。30歳を前に広島市から移住し、69年に吉和で養魚場を開いた。自ら釣ったアマゴの卵を絞り、人工ふ化から稚魚の成育まで手掛けた。養殖組合をつくり、「アマゴの里」の土台を築いた。
趣味の釣りが高じて6年前、大阪から一家で移り住んだ則武一生さん(55)は「専用区以外でも、天然アマゴが多く生息する。毛針やルアー、餌釣りまで幅広く楽しめる」と紹介する。
「手つかずの自然は減ったけれど、魚が命を育む川を見守っていきたい」と西村さん。先達の言う、山川草木に溶け込む渓流釣りの風景が息づいている。
(写真と文・安部慶彦)
体の朱点が鮮やかなアマゴ。予約制の毛針専用区ではキャッチ・アンド・リリースがルールだ
小川川の原生林。大水で根こそぎ流れ出たとみられる木々も若葉を茂らせていた(魚眼レンズ使用)
ゴギを釣り上げる柿木一義さん
渓谷の水面に新緑が映える
大小の岩を縫う清流。手つかずの自然が釣り人を誘う
夫婦でフライフィッシングを楽しむ柿木一義さん㊧と美千枝さん
中津谷渓谷の水辺に咲くキシツツジ
毛針専用区ではキャチ・アンド・リリースで資源を保っている
水生昆虫を模した毛針。試行錯誤して作るのも楽しみという
光が差し込むと、清流の透明度が増す
中国山地で標高の高い冷水域に生息するゴギ
キシツツジに集まるミヤマカラスアゲハ
カエデの新録が美しい中津谷渓谷でさおを伸ばす
透き通った清流を泳ぐアマゴ
新緑の中津谷渓谷では釣り人が景色に溶け込む
第10回【棚田の水鏡】
湾曲美が紡ぐ景観 後世へ
(広島県安芸太田町井仁)
おむすびのような形をした山の肩から朝日が顔を出す。空の色は深い藍からオレンジへと移ろい、棚田の水鏡が輝きを増す。卯月(うづき)の早朝。鳥のさえずりとともに井仁の一日が始まる。
田植えを前に、「日本の棚田百選」として知られる広島県安芸太田町の井仁(いに)地区を訪れた。太田川中流域で標高450~550メートル。つづら折りの急坂の先にある狭いトンネルを抜けると、すり鉢状の斜面に大小の田が重なり合う。水は、天上山など周りの山々の四つの谷から引き、田畑を潤してきた。
戦国期の石垣も残り、江戸時代には峠越えの要衝として栄えた。200年以上かけて開かれ、垂直の石積みは今も美しく湾曲する。昼下がり、階段状の水田には代かきの点描が描かれていた。「狭く複雑な地形。機械が入れない所も多い」と片山俊司さん(76)。美田を守る自負をのぞかせた。
ただ、1960年代に約200人を数えた住民は現在、約50人。棚田百選に指定された99年当時に324枚だった水田は約180枚までに減った。20年前の同じ頃、イノシシなどの獣害を防ぐために集落の外周4キロをフェンスで囲み、応援団の都市住民との交流を始めた。近年は棚田オーナー制度に加え、大学と連携した学生の受け入れや、環境活動に力を入れる企業との棚田管理にも取り組む。
住民グループ「いにぴちゅ会」の河野司会長(75)は「新型コロナによって厳しい状況だが、これからも地区外の協力なしに棚田の維持は難しい」と話す。
大型連休中の5月1日。田植えが斜面のあちらこちらで始まり、片山さんも苗を手で植えていた。昨年は地区外の親族らが帰省を自粛したが、今年は4人が戻ってくれたという。
唯一のカフェから談笑が聞こえた。元町地域おこし協力隊員でオーナーの友松裕希さん(32)は「棚田は人と自然が織りなす景観。癒やしを求める人は多い」。自らも田んぼ1枚の世話をしながら、井仁の棚田の魅力を発信している。
太田川流域でも細る棚田文化。井仁で20代続く正音寺住職の大江真さん(70)は「歴史を絶やさず後世に引き継ぎたい」と語る。高台から見える水鏡が、その決意と誇りを映していた。
(写真と文・安部慶彦)
ほぼ垂直に立つ石垣が曲線美を描く。まばゆい新緑の中、田植えに汗を流す住民たち
早朝、朝日に輝く井仁の棚田のほとりに座る2人
上空から撮影すると、休耕田が増えているのが分かる(小型無人機から)
夕方、田んぼの水の様子を見て回る。朝とともに欠かせぬ日課だ
高台のカフェの窓越しに、すり鉢状の棚田を見渡せる
夜明け前、棚田の水鏡が深い青色に染まっていた
青空の下、苗を一つ一つ手で植えていく
棚田の水面に満月が映り込む
田植えを手伝う兄弟
環境学習に取り組む広島市内の子どもたちが久々に集落を訪れ、地域の人たちと交流した
200年以上をかけて開墾された井仁の棚田。ほぼ垂直の石積みが急勾配を物語る
夜明け前の一瞬、東の空と棚田の水面が青色を帯びる
太田川沿いに連なる安芸太田町上殿地区の水田(小型無人機から、3枚を合成)
なだらかな斜面の上殿地区。田んぼの水面に住宅が映っていた
北広島町鶉木地区の棚田(小型無人機から)
太田川沿いの安芸太田町土居でも、田植えの準備が進んでいた
第9回【稚ガニの関所越え】
魚道横ばい 難所の堰遡上
(広島市安佐北区、安佐南区)
甲羅の両側に並ぶ細長い脚で、水際のコンクリート壁を横ばいに進む。体長1~3センチのモクズガニの子たち。長さ86メートルにわたる緩やかな階段状の魚道をさかのぼる姿はたくましい。
太田川の河口から13・6キロの広島市郊外にある高瀬堰(ぜき)=安佐北区、安佐南区。今春、大量の稚ガニが遡上(そじょう)していると聞いた。太田川漁協の中谷春行理事(71)は「ここ2、3年、堰を上る姿が増えたが、これほど多いのは初めて。数日かけて関所を越える」と話す。
1975年完成の堰は生活や工業用の水をため、治水も担う。川幅約330メートルに並ぶ7門の鋼製ゲートで水量を調節する。魚たちにとっては巨大な壁だ。このため建設時から両端に幅6メートルの魚道を設けてあり、左岸側には舟通しも備える。
川と海を往来する魚類は両側回遊魚と呼ばれ、高瀬堰ではアユやサツキマスなど約10種が見られる。国土交通省太田川河川事務所は毎年、遡上調査を続けてきた。春から初夏までを中心に数日間、魚道の上流側に網を仕掛けて捕獲し、種類やサイズを記録する。
4月中旬の調査を取材した。両側の魚道で午前中に建網を入れ、夕方と翌朝に揚げる。左岸で初日はアユ3匹など少なめながら、翌朝はウグイ2千匹が入った。「活発な春の川です」と調査員。モクズガニは3月分を含む速報値(4日間)で計607匹と、昨年の計232匹を大きく上回った。
元来、太田川は電源開発によるダムや堰が多く、魚類の遡上を阻んでいた。中流の津伏取水堰(同市佐伯区湯来町)より上流は特に難所続き。国は93年からモデル事業として、河口から70・8キロまでの本流にある発電用堰や農業用取水門の計12カ所を対象に魚道の新設や改良を進めた。広島県も協力し、延長103キロのほぼ8割に当たる、立岩ダムの約6キロ下流(安芸太田町)まで上れるようになった。
それから20年余り。県野生生物保護推進員の内藤順一さん(70)=府中町=は「遡上する魚種や数は川の豊かさの指標だ。ただ、魚道付きだからと堰が造られ、実際には上れないケースもある。継続的な点検や管理が必要だ」と訴える。
(写真と文・安部慶彦)
上流側から見た高瀬堰左岸。左2本の水路のうち右側が魚道で左側が舟通し
高瀬堰の魚道を遡上するモクズガニの子
水中から現れて、魚道の壁面を群れになって移動するモクズガニ
高瀬堰の魚道調査で捕獲されたウグイの群れ
魚道の水面下で壁面に張り付くモクズガニ
下流側から見た高瀬堰。奥左は安佐南区八木地域の広島土砂災害被災地に建設された砂防ダム群
魚道の調査用網に入ったアユ(中央下)やモクズガニ(右端)、ウグイ(中央)
魚道の上流側に建網を設置する調査員
遡上調査で捕獲した生き物の種類や大きさを記録する
モクズガニの子が魚道の壁にびっしりと集まった
捕獲した生き物を運ぶ調査員
太田川中流域にある津伏取水堰。魚道は当初、中央部だけだったが、手前の左岸側に追加された
流れを弱める「コ」の字型のコンクリート柱が中央に並ぶ。遡上する魚が休めるという
高瀬堰に居着くオオサンショウウオ
高瀬堰近くの太田川が夕日を浴び、黄金色に輝いた
高瀬堰の魚道をさかのぼるアユ
魚道の段差をジャンプして越えるアユ
高瀬堰を遡上するアユの群れ
第8回【再生の桜並木】
河岸彩る 平和のシンボル
(広島市)
淡いピンクのベールに縁取られた広島市中区の本川沿い。対岸のなだらかな芝生広場では人々が憩い、干満の大きな川面を遊覧船が行き交う。下流の原爆ドーム前で分かれる元安川にかけて、戦後、街と緑の再生を願って植えられた桜並木。いつもより早く3月下旬に満開を迎えた。
樹木医の堀口力さん(75)=西区=によると、原爆で市中心部の木々は大半が失われた。全国からイチョウやクスノキなどが寄せられた「供木運動」もあって徐々に、焼け野原は緑を取り戻していく。ただ、「管理の難しいソメイヨシノは当初少なかった」という。
戦前、広島で桜の名所といえば、工兵橋南西の「長寿園」だった。跡地付近の堤に立つ碑文は、明治末期に地元の実業家が東京から桜の苗木を取り寄せ、苦労して一大園地を成したと伝える。露店や座敷も並ぶにぎわいは風物詩だった。この桜の園は爆風に耐えたが、戦後復興に伴う埋め立てによって姿を消す。
デルタ河岸の桜並木の出発は主に、戦後約10年を経て始まった平和記念公園周辺での市民らによる植樹と、1960~70年代の区画整理や再開発だ。本川端に木造家屋が密集していた基町から北側の旧長寿園までの約1・5キロでは、中高層アパート群の建設に合わせてできた河岸緑地にずらりと植えられた。工兵橋から南東へ流れる京橋川の白島側も新名所となった。
堀口さんは「ソメイヨシノは川沿いなど風通しの良い場所で育つ。広島では特に平和や復興の象徴として愛されてきた」と語る。
取材で印象的だった風景がある。西区楠木町の本川右岸の大雁木(がんぎ)と満開の桜。江戸時代に荷揚げ場として造られた石段と、半世紀を刻む並木が調和していた。ここを守り活動拠点とする、「スタンドアップパドルボード(SUP=サップ)」の愛好者が、ドーム前まで往復して桜をめでる水上ツアーを楽しんでいた。
ひろしまSUPクラブ代表の西川隆治さん(56)は「この時季は広島の街が一番美しい。自粛生活が続く今だからこそ、川や自然に触れたいという人は増えている」と実感する。新たな試練からの再生を、水都の桜並木は見つめ続ける。
(写真と文・安部慶彦)
楠木の大雁木と咲き誇る桜
復興や平和への願いを込めて植えられた平和記念公園周辺の桜が、街の明かりに照らし出された
長寿園アパート沿いの桜並木。盛りを過ぎ、吹き抜ける風で桜吹雪になった
平和記念公園で散り始めたソメイヨシノを見上げる親子
楠木の大雁木を大切にしているSUP愛好者。色とりどりのボードが桜の下に並んだ
水上から桜を楽しむSUPのお花見ツアー(小型無人機から)
パドルをこぎながら花見を楽しんだ
本川沿いで咲き競うソメイヨシノ。対岸は憩いの広場になった
京橋川沿いの縮景園。ライトアップされた桜や竹林が川面に映る
満開の桜に囲まれてSUPヨガでリラックスする愛好者
戦後の復興とともに植えられ、大きく枝を張って河岸を彩るソメイヨシノ(小型無人機から)
楠木の大雁木は、絵筆を執るのにも絶好のスポット
水辺の護岸で遊ぶ子どもたち。奥は長寿園アパート沿いの桜並木
つり橋の工兵橋を包むように桜が連なる
工兵橋下流の京橋川沿いで、水面に張り出した桜を楽しむ
白島北町の本川沿いに立つ長寿園の碑。風に散る花びらを少女が手のひらで受け止めた
ピンクと白の花を咲かせる縮景園のシダレザクラ
桜やモモ、レンギョウが咲き誇るJR可部線の旧安野駅一帯。奥は太田川(小型無人機から)
太田川中流域の桜並木(小型無人機から)
第7回【ヤマセミはどこへ】
魚捕りの名手 受難の時代
日本鳥学会会員の上野吉雄さん(68)=廿日市市=は愛用の小さな双眼鏡を手にほぼ毎日、太田川流域を歩く。ただ、この2、3年、めっきり見掛けなくなった鳥がいるという。かつて中・上流域で常連だった魚捕りの名手、ヤマセミ。話の真相を探ろうと、年明けからその姿を追った。
白黒の鹿(か)の子柄で、ハトより少し大きい。頭上に逆立つ冠羽、大きなくちばし、「ケラケラケラ」と甲高い鳴き声。最初に出合ったのは1月中旬、渓流に張り出した枝で獲物をうかがい、存在感を放っていた。20分ほどして下を向くと、一気に川へ飛び込んだ。
かわいらしくて、りりしい姿。「1度見たら忘れない」。多くの人の心をつかむ訳が分かる気がした。
日本野鳥の会広島県支部が1991年、ヤマセミを調べた資料が残る。太田川水系では計12の生息地を記す。このデータを手掛かりに、住民や野鳥愛好家に話を聞き、会員制交流サイト(SNS)の情報も参考にしながら車を走らせた。結果として姿を確認できたのは4地点だけだった。
身近なヤマセミはなぜ減ったのか―。専門家は、相次ぐ土砂災害や護岸工事で巣穴に適した土の崖が減り、餌場の川も雑木林や竹やぶが刈られるなどしたためとみる。上野さんは「ひなの目撃情報が特に少ない。繁殖がうまくいっていないのかも」と心配する。
都市部でも同様だ。野鳥の会元支部長で広島女学院大名誉教授の中林光生さん(81)=広島市安佐北区=は、自宅近くの高瀬堰(ぜき)下流で2005年から14年間、ヤマセミを観察した。昨年、その記録を本にまとめた。「太田川の河川敷は自然豊かだが、災害対策などで環境が変わってきた」と話す。野鳥の観察マナーにも左右されるという。
30年ほど前は県内各地の川で見られたヤマセミ。県は、11年度のレッドデータブックで「準絶滅危惧種」とした。さらに21年度の改訂では「絶滅危惧Ⅱ類」へ格上げされる見通しだ。
実情を知ってもらおうと今月、NPO法人三段峡―太田川流域研究会が繁殖の本格化を前に初めての観察会を開き、親子連れらが参加した。「鳥たちもすみやすい川や森にしようね」。案内役を買って出た上野さんはそう語り掛けた。
(写真と文・安部慶彦)
3月上旬、赤土の崖で確認した営巣活動。雄㊧は枝に止まり、巣穴を掘っていた雌が外へ出てきた。専門家の指導を受けて撮影した
水面近くを滑るように飛ぶヤマセミ
鹿の子柄と逆立つ頭上の冠羽がトレードマークだ
巣穴の入り口で大きく羽ばたく。専門家の指導を受けて撮影した
渓流の岩の上で寄り添うオシドリのつがい
狩りの名手、ヤマセミ。捕らえた魚をくわえて飛び立つ
繁殖期に入り、つがいでの滑空が見られた
太田川支流で小魚を捕るカワセミ
水辺のハンターが共演。同じ枝に止まったヤマセミ㊨とカワセミ
太田川沿いの道路端で突然、ヤマドリが優美な姿を現した
小魚や水生昆虫を捕らえる小型のカイツブリ
観察会で、はく製(左からヤマセミ、アカショウビン、カワセミ)を見て特徴を学ぶ参加者
川辺の枝に止まるエナガ
水生昆虫などを捕らえて生活するカワガラス
マガモたちの食事風景
華やかな春色にシジュウカラが囲まれていた
第6回【湿原の足跡】
八幡の潤い 動植物を育む
(広島県北広島町)
明けやらぬ稜線(りょうせん)が赤みを帯び始めた。雪の湿原はまだ青白い。足元の水辺に、丸い、小さなくぼみの列が浮かんだ。斜光の陰影が動物の足跡と気付かせてくれた。胴長のテンか。近くでウサギのそれも交差し、野生の躍動を想像した。
太古に湖底だった標高800メートル前後の盆地に、大小の湿原が点在する広島県北広島町八幡地区。立春の後の陽気をかき消すように2月中旬、大雪となった。天候が回復し、臥龍山北側の裾野に1キロほど続く霧ケ谷湿原を未明に訪れた。
年始に隣の湿原であった観察会を思い出す。「多くの動物は夜行性。直接見るのは難しいけれど、足跡などを手掛かりに生態が分かる」。認定NPO法人西中国山地自然史研究会事務局の前田芙紗さん(40)に教わった。家族連れに交じって「芸北 高原の自然館」周辺の雪をかき分けた。小高い丘では、ツキノワグマが登って実を食べた痕跡「クマ棚」がコナラの枝に残っていた。
自然館主任学芸員の白川勝信さん(48)は「湿原は誰でも訪れることができ、源流の中でも身近な場所」と紹介する。八幡は千メートル級の山々に囲まれ、年間降水量は2千ミリを超す。多様な動植物を育み、水質や流れを保つ湿原の役割を説く。
ただ八幡地区でも大正以降、水はけの悪い湿地の多くはかんがいによって田畑になった。戦時中は多くが演習場にされ、戦後は開拓団も入植した。その後も開発などで草地は広がり、森へと姿を変えていた。
霧ケ谷湿原も1960年代の牧場造成で乾燥が進み、閉鎖後の90年代に有志が再生へと立ち上がる。県は10年ほど前、柴木川の水を霧ケ谷全体に行き渡らせた。メンバーは昨秋も草刈りや水の流れを保つ活動に汗を流した。一方で北広島町は昨年、八幡の湿原群約415ヘクタールを野生生物の保護区に指定した。
自然館南の千町原(せんちょうばら)。植物学者牧野富太郎の句碑が立つ。昭和初期に八幡を訪れて湿原を彩るカキツバタ自生地の広さに驚き、世に知らしめた。白川さんは「長い年月をかけてできた湿原。守るのは人の力」と強調する。
再び霧ケ谷の朝。シジュウカラやエナガの声が響いた。春到来を告げていた。
(写真と文・安部慶彦)
雪原の丘に立つコナラの枝に残っていた「クマ棚」に見入る観察会の参加者たち
霧ケ谷湿原を上空から眺めると不思議な模様が広がっていた。左の直線は人が歩いた跡(小型無人機から)
柴木川の水を全体に行き渡らせてよみがえりつつある霧ケ谷湿原(小型無人機で撮影した3枚を合成)
動物の足跡が水辺を行き交う(小型無人機から)
霧ケ谷湿原に隣接する二川キャンプ場。朝焼けの空と動物たちの足跡が幻想的に浮かんだ
キャンプ場付近に設置した自動カメラに写ったテンとみられる動物
ムササビの体の形のようなくぼみを見つけた。近くの樹上から飛び降りたのだろうか
氷の張った池から延びていた痕跡。捕まえた魚を動物が引きずって運んだのかもしれない
昨年11月、霧ケ谷湿原で保全のための草刈りや樹木伐採があり、ボランティアたちが汗を流した
霧ケ谷湿原で草刈りをするボランティアたち
ふかふかした新雪の上に横たわる観察会の参加者(小型無人機から)
臥龍山麓の千町原で、雪をまとう牧野富太郎博士の句碑。「衣にすりし 昔の里か燕子花」。湿原に自生していたカキツバタに感激してシャツまで染めたという逸話が残る
ヤマドリが飛び立ったとみられる雪上の跡
月明かりに照らされた霧ヶ谷湿原。空にはオリオン座(中央右)などの星々がきらめいていた
3月上旬の観察会。雪解け後の芝生上に数多く残る小さな盛り土はモグラの痕跡。ハタネズミが掘った細い通路もあり、生態の一端が分かる。奥は「芸北 高原の自然館」
第5回【那須の隠れ滝】
豊かな水 「消滅集落」に光
(広島県安芸太田町)
隠れ滝―。その響きに心引かれた。広島県安芸太田町で十方山(1319メートル)から北へ続く斜面を刻む幾筋もの谷の一つにある名瀑(ばく)。厳冬期の姿を見ようと1月下旬に向かった。
滝の名付け親は、谷川が下る山中の那須集落に母親と暮らす岡崎隆則さん(68)。3年前、半世紀ぶりに戻った古里の住民はわずか4人になっており、「消滅集落」との声も漏れた。「何とか元気づけたい」。澄んだ湧き水と、かつて遊んだ秘境を売りだそうと発起した。
太田川上流に注ぐ那須川沿いの急坂を車で上ると、木造の旧校舎が立つ小さな広場に着く。滝へは、家や田畑の脇を抜けて雪の林道の先にある登山口を出発した。
積雪は膝の下くらい。青空がのぞく。一帯は戦後に林業で栄え、名残の杉木立が白い斜面に影を映す。材木を運び出すのに使った道を伝い、硬い雪の斜面を横切り、尾根と谷を交互に越えていく。2時間で滝口上部のせせらぎに出合った。
合併前の戸河内町史の村境図に「三つ滝」と記された三段滝の最上部。下っていくと、水の流れ落ちる音が大きくなった。慎重に岩場を渡り、足場を探る。しぶきの舞う中段の滝つぼに立つと、岩肌に青みがかった氷柱が張り付いていた。傾く日が差し込んだ。
昨年末、岡崎さんと川をさかのぼるルートで下見した。自らがやぶを刈り、木橋を架けて歩けるようにしたという。滑り台のようなナメラや、石段の滝もあり「大小連なって落差100メートル以上。季節ごとに絶景を楽しめる」と胸を張る。この隠れ滝を昨秋のトレイルレースでコースに入れた松田孝志さん(55)=廿日市市=は「水の音を聞きながら約400人が駆け降りた」と振り返る。
豊かな水は那須の命だ。集落奥で湧き出る水が山中の浄化槽を経て、5世帯7人を潤す。「あふれるほどでありがたい」と、昨秋から住む地域おこし協力隊の米田新吾さん(57)。水を求めての移住者もいる。長老の岡田秋人さん(88)は「代々大切にしてきた水と滝のおかげで集落が息を吹き返しそう」と笑顔を見せた。
(写真と文・安部慶彦)
那須集落を歩く米田さん(左)、岡田さん(中)、岡崎さん。「消滅集落」といわれた山里が変わりつつある
三つ滝の中段。午後の太陽が滝口の上で輝いた
訪れるルートを整備した「那須の隠れ滝」を案内する岡崎さん
雪の斜面を横切るように進んでいく
雪に覆われた岩場をゆっくりと下る。三つ滝中段の滝つぼへ向かう
湧き水を集めた最上部の浄化設備。那須の住民が戦後に設置し、管理を続けてきた
那須集落の石垣の段々に積もる雪。冬場は集落を離れる住民もいて、静けさに包まれていた
林業で栄えた地域の歴史を感じさせる杉木立
年明けの寒波で大雪に見舞われ、除雪作業に追われる岡田さん
那須集落の入り口にある案内板。自由にくむことができる「那須の名水」(手前右)は冬でも凍らない
軒下で寒風を浴びる漬物用の大根
三つ滝の上段。周りの谷からも流れ込み、水量が増えていく(小型無人機から)
滑り台のような緩い傾斜が約100㍍にわたって続くナメラ滝
「那須の名水」のそばで話す岡田さん㊧、米田さん㊥、岡崎さん。奥左は木造の旧校舎
山腹にぽっかりと開けた那須集落
第4回【JR可部線の旧田之尻駅】
流域支えた鉄路 余韻今も
(広島県安芸太田町)
広島県安芸太田町加計の町から太田川沿いを車で下流へ10分余り。津浪つなみ洞門のカーブを抜けると、右手の川向こうに小箱のような建物が見える。橋を渡ってみた。「たのしり」と書かれた地域の案内柱が立ち、こけむしたホームが建物の脇に延びていた。
川端の旧田之尻駅は水流の音や小鳥のさえずりが響く。JR可部線のうち、この駅を含め非電化だった可部(広島市安佐北区)―三段峡(安芸太田町)間46・2キロが廃止されたのは2003年12月1日。ディーゼルカーは姿を消し、今は鉄道ファンがたまに訪れるくらいという。
時を止めた駅舎の壁には時刻表や連絡用の電話機が残る。停車位置を示す標識、丸いミラーも歴史を感じさせ、単線のトンネル跡が鉄路の余韻を醸す。
「駅」の世話を60年近く続ける住民に出会った。すぐ隣に住む伊賀昭造さん(94)。竹ぼうきで周りを掃いたり草を刈ったり。「生活を支えてくれた可部線。その灯を完全に消したくない」と川面を見やった。
田之尻地区は旧筒賀村のほぼ東端に位置する。国鉄時代の昭和29(1954)年3月に加計駅まで延伸された2年後、「筒賀停車場」として出発。一つ下流側の旧坪野駅(同町)との間には、1954年にこの地で国鉄の敷設総延長が2万キロを突破した記念碑が立つ。
「田之尻駅」と改名したのは、三段峡まで開通した69年7月。しかし、陰陽を結ぶ一大計画は80年に凍結された。可部線は太田川流域の物流を担い住民や観光客を運び続けたが、車社会の到来や過疎化の波を受けた。民営化後の98年、JR西日本は赤字を理由に非電化区間の廃止を打ち出す。
沿線や都市の住民とともに田之尻でも存続運動を繰り広げた。駅前に蒸気機関車の模型を飾り、井仁の棚田の最寄り駅をアピールした。地区の祖母の家へ可部線で何度も通ったという広島市中区の会社員釈迦郡しゃかごおり一正さん(48)は「田之尻駅は可部線で一番小さな駅。役割を終えてもローカル線の雰囲気そのものです」。
(写真と文・安部慶彦)
時刻表や木製のベンチがそのままの駅舎。目の前を流れる太田川に朝日が差した(魚眼レンズ使用)
ホームのミラーに映る伊賀さん。大粒の雪が舞っていた
使われることのない連絡用の電話
雪が降った日の翌日。ホームで昔を思い出す。可部線の現役当時は冬場の雪かきが日課だった
無人駅だったことを物語る切符の回収箱。雪化粧した川の流れる音が響いた
上空から見た旧田之尻駅(手前)と太田川の下流方面(小型無人機から)
憩いの場でもあった駅には、時折、住民たちが立ち寄る
廃止当時の時刻表が残る。鏡には川面が映っていた
旧田之尻駅近くに残る鉄橋。可部線の廃止区間は鉄橋の多さも特徴だった
レールは撤去されており、砂利の線路跡が歴史を伝える
旧田之尻駅と旧坪野駅との間に立つ、国鉄の敷設総延長2万㌔突破の記念石碑
太田川中流域の谷間を縫うように走っていた可部線。あちこちに痕跡がある
第3回【恐羅漢山の樹氷】
雪深い奥山 自然の造形美
(広島県安芸太田町)
強い寒波がヤマを越えた年初の連休明け。太田川源流域にある広島県最高峰の恐羅漢山(安芸太田町、1346メートル)を目指した。
霧の中、新雪に沈むかんじきを一歩一歩進める。北側の尾根で視界が少し開けた。杉やヒノキの三角帽が厚い氷をまとい、ブナ林も凍り付いた枝が天を仰ぐ。山頂の標柱の目盛りは積雪2メートル近い。雲間から一瞬、陽光が差し込む。雪と氷の造形美に引き込まれた。
数日後、好天を念じて再登頂した。「これだけ大きな樹氷は久しぶり」。万全の冬山装備で訪れた、広島市安佐北区の荒木静江さん(71)はぐるりと見渡した。
冬に日本海からの烈風を浴びるこの奥山一帯は、夏場の多雨もあって降水量が県内で最も多い。島根県境に位置し、北東―南西の断層に沿って尾根と谷が走る。雪解け水は東側山麓の横川(よこごう)川から三段峡のある柴木川を経て太田川へ流れる。
静寂の山頂。眼下にスキー場が広がり、麓に5世帯6人が暮らす横川集落がある。古くは鉄山業や運搬で生計を立てた。戦後、木材需要の高まりで一帯は皆伐された。細るなりわいと離村に追い打ちを掛けたのが、1963(昭和38)年1月の「38豪雪」だ。気象台の記録では広島県芸北町(現北広島町)八幡で積雪350センチ。同月31日の中国新聞夕刊の「雪だより」は恐羅漢450センチと記す。
一方で、集落の危機を救ったのも雪の多さだった。地元有志が67年にスキー場を開設。73年には隣に国営(後に統合)もできた。林道整備や中国自動車道の開通で九州からの客も迎え入れた。こうした変遷は、広島修岳会名誉会長の瀬尾幸雄さん(90)=佐伯区=の著作「山の人生60年恐羅漢の山里を訪ねて」に詳しい。
近年は暖冬傾向で、新型コロナ禍の苦境も続く。父から継いだ民宿を10年ほど前にたたんだ隠居義明自治会長(73)は「自然の怖さを知ると同時に、その恩恵を受け続ける地域だ」と語る。
(写真と文・安部慶彦)
山頂付近の木々は雪と氷を厚くまとっていた
晴れ間が広がり、青空の下で樹氷が輝いた
広島、島根(手前)県境の恐羅漢の山頂付近。奥右は内黒峠(小型無人機から)
新雪を踏み締め、樹林帯を進む
太陽の光を浴びた一滴が雪解け水となる
新雪にけものの足跡が残る
山頂を訪れた登山者。安全な計画と万全な装備は欠かせない
太陽の光が、雪と氷の世界を少しずつ解かしていく
頭をのぞかせた山頂の標柱が雪の深さを物語る
新雪の斜面を山スキーで登っていく
深入山(奥左)もすっかり雪化粧していた
恐羅漢山頂付近で樹氷をカメラに収める登山者
リフト頂上。絶景を眺めながら滑り降りる
スキーヤーやスノーボーダーでにぎわう恐羅漢スノーパーク
今冬は天然雪に恵まれ、リフト乗り場に列ができた
民宿やペンションが立つ横川集落を歩く隠居義明自治会長
第2回【宇賀大橋】
長さ140メートル 床板の通学路
(広島市安佐北区)
「お帰り。さあ渡ろうね」。黄色い帽子の児童と愛犬連れの母親たちが、枕木のような木材を敷き詰めてある床板を踏みしめる。赤茶けた鉄製の手すりを冷たい風が吹き抜けていく。皆で歩を早めると、大きなつり橋が小刻みに揺れた。
山あいの広島市安佐北区安佐町久地。蛇行する太田川沿いに20世帯ほどが暮らす集落の名を冠した「宇賀大橋」が昨春から、約10年ぶりに通学路となった。地元の久地小が5キロ離れた飯室小に統合して児童はバス通学となり、朝夕、4人が対岸の国道まで行き来する。5年生の斉藤乙葉さん(11)は「冬の川は透き通っていてきれい」と笑顔を見せた。
宇賀地区は古くは林業で栄え、材木などを運ぶ拠点だった。川舟も行き交い、船宿が並んだという。市道である宇賀大橋は太田川に現在残る主な四つのつり橋のうち最も長い約140メートル。1953年に完成した。近くで育った福本五雄さん(78)は「昔は両岸をつなぐワイヤをたぐって舟で渡った」と懐かしむ。
戦後、太田川流域は人口が増え、地元の寄付もあって多くのつり橋が架けられた。車社会になると、鉄骨製に代わっていく。宇賀大橋は補修を重ねて元の姿を保ったが、JR可部線廃線で近くの小河内駅が閉鎖されるなどして役割は小さくなった。歩いて渡るのは主に子どもとお年寄りだ。
コンクリート製の主塔がそびえ、木床でも1トンまでの車は渡っていく独特の風景。大橋への愛着と地域の歴史を伝えようと、自治会と公民館が企画した町歩きは新型コロナウイルスによって取りやめた。橋の点検もする宇賀自治会の大田法隆会長(68)は「約70年、暮らしと川とともにあるつり橋。その役割を胸に刻んでほしい」と願う。
(写真と文・安部慶彦)
第1回【デルタの輝き】
水も電気も 暮らしの基盤
(広島市)
島々があかね色に包まれると、広島市街地は輝き始める。このデルタを生んだ太田川は6本に分かれて街中を縫い、瀬戸内海へ流れ込む。師走の夕刻、ヘリコプターから見渡すと、放射状に伸びる川筋が残照に浮かび上がった。暮らしと命を支える動脈に思えた。
恵みの最たるは水だ。田畑や集落を潤し、上水道は1899(明治32)年の給水開始以来、都市の生活と産業の基盤となった。現在は広島市をはじめ呉市や江田島市など島しょ部の計約155万人が享受する。
広島県西部の冠山(廿日市市吉和)一帯を源流とする1級河川。豊かな水量は中国地方で指折りの多雨に由来する。断層沿いから谷間を東へ曲流し、広島市北部で南へカーブ。延長は103キロに及ぶ。73もの支流を足すと流域面積は約1710平方キロと、県全体の2割を占めている。古くから農林業や船運、漁などの恩恵をもたらしてきた。
明治・大正期からは殖産や軍需を背景に電源開発が推し進められ、今も中国5県の水系で最多の15の水力発電所が稼働する。最大出力は計約83万キロワット。鳥取県の旭川と日野川水系の計約123万キロワットに次ぎ、5県全体の3割に当たる。戦後は大規模ダムも建設され、広島市や沿岸諸都市に電気を送る役割も持つ。
光輝く「水の都」は、400年前の毛利氏による築城から歴史を刻む。今は川沿いにカフェも並び、原爆ドーム前を遊覧船が行き交う。新型コロナウイルス禍で時は止まったようだが、川辺を散策する人の姿は増え、身近な川との距離が近づいて見える。河岸緑地で夏に初めて音楽の催しを企画した同市安佐南区の高田敬子さん(31)は「川の魅力で人がつながる。それが広島の良さです」と話す。
(写真と文・安部慶彦)
プロローグ【再生のシンボル】
都市の浅瀬 命つなぐアユ
(広島市安佐南・安佐北区)
オレンジ色に体を染めた無数のアユが浅瀬を群れ泳ぐ。産卵を控えて警戒心は薄まるようで、レンズの前を平気で行き交う。11月上旬、広島市安佐南、安佐北両区にまたがる太田川下流域。両岸に住宅やマンションが並ぶ都市の川にアユ再生の兆しは確かにあった。
川と海をほぼ1年で行き来するアユ。太田川では9月下旬~11月上旬に下流で産卵して数日でふ化し、流れに任せて河口へ下る。海で育ち、翌春に川を上って力を蓄え、命をつなぐ。
「40年ほど前は産卵期にひと晩の漁で船が沈みそうになる日もあった」。近くの川漁師谷口正博さん(80)は懐かしむ。ここ数年、産卵のため川を下る落ちアユの魚影が濃くなり、さおを振る姿も増えたという。
アユ漁の浮沈は太田川の歩みと重なる。水系一帯には明治末期からの電源開発によるダムや堰(せき)が多く、戦後は広島湾の埋め立ても続いた。災害を防ぐ護岸のコンクリート化も進み、アユは減少の一途をたどった。
市は2014年、太田川漁協(安佐北区)や国、広島県とアユ再生に乗り出した。産卵場を整え、禁漁区域も広げた。同漁協の漁獲量は15年度、ピークの50分の1の6万7千匹にまで落ち込んだが、近年は回復。今季は下流に設けた産卵場周辺で推定約30万匹の親魚の大群を確認した。
「アユは太田川と広島湾の再生のシンボルだ」と同漁協の山中幸男組合長(74)。「ここ数年、春に堰の魚道をさかのぼる天然アユが増え、秋に産卵するサイクルができた。川と人が関わることで、アユ復活へ向かいつつある」と期待する。
(写真と文・安部慶彦)